修養としての剣道 連載

剣道の学び方(⻆ 正武)

2021年5月17日

角正武範士(すみ・まさたけ)

昭和十八年福岡県生まれ。筑紫丘高校から福岡学芸大学(現・福岡教育大学)に進み、卒業後、高校教諭を経て母校である福岡教育大学に助手として戻る。福岡教育大学教授、同大学剣道部部長を歴任。平成十一年から十四年まで全日本剣道連盟の常任理事を務める。第二十三回明治村剣道大会三位。第十一回世界剣道選手権大会日本代表女子監督。現在は福岡教育大学名誉教授、同剣道部師範を務めている。剣道範士八段

手段としての技術修錬のあり方

 剣道をどう捉えて修錬に臨むかは重要な問題です。修錬の過程でさまざまな目標を立てることはあり得るでしょうが、技術の修錬を通して人格の陶冶を図るという教育的特性は不易の価値として受け継いでいかなければなりません。手段としての技術修錬のあり様について、現状が満足すべきものであるか振り返って検証してみます。

 昭和三〇年代後半から四〇年代にかけて、全国的に少年剣道ブームが起こっています。当時は青少年の健全育成がさけばれ、「我が子の正しく逞ましい成長を」という保護者の願いが、規律や礼儀作法を重んじる剣道教室の教育効果に期待が寄せられたものでした。やがて入門・初動期の者の興味を持続させる方策として、試合の勝敗を楽しむ方向に大きく動きはじめます。部内での試合稽古では満足できず、やがて対外試合が盛況となり今日に至っています。入門・初動期の者の興味付けという限界をはるかに超えて、剣道修錬の基盤を築くべき初級段階(初段~三段あたり)の者からさらに四・五段になっても、試合競技偏重の昨今です。

 剣道は競技の末に走ってはならないという伝統的な考え方は忘れられてしまい、稽古は試合に勝つための内容や方法が主流を占めるようになっています。勝つための技術の習得は、同類他者との競い合いによって会得するといったまったく誤った考え方が蔓延してしまい、勝敗の不確定性を楽しむというスポーツの捉え方に様変わりしていると言っても過言ではありません。

 さらに昨今では変則的な操作で巧みに相手を打って勝つという風潮から一層劣化して、打たれまいとする防禦動作偏重の技術が横行するに至ってしまいました。その結果基本に忠実な動作や操作で積極・果敢な決断力や旺盛な攻撃の気力を発揮する戦い振りが評価されるのではなく、変則的であっても勝者のみが賞讃される勝利至上主義に陥っているのではないでしょうか。

 勝敗の機微やアクロバティックな技術の展開を楽しむスポーツ観でも、勝利至上主義は否定されて当然であるにもかかわらず、ましてや修養の道を理念としてかかげる剣道界が勝利至上主義に陥っている現状は嘆かわしいかぎりです。

 不適切な態度や姑息なふる舞いで勝利しようとする者には厳しい叱責を与えて反省を促し、正剣を貫徹しようと努力して敗れた者を称えて再起を促すという美風を回復せねばなりません。

 打突の高い基準での見極めや、不当な行為に対する厳しい対処など、審判のあり方による改善が試みられ、「審判が良くなれば試合が良くなる。試合が良くなれば剣道が良くなる」と審判法による改善努力が続けられてきましたが、一向に効果が見えてきません。指導法の根本に着眼して、剣道修錬の基盤づくりを再確認しなければ剣道の将来が不安でなりません。

なぜ稽古と言うのか?



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