稽古方法 高校剣道

強豪チームのつくり方(島原高校)前編

2020年11月9日

2018.10 KENDOJIDAI

勉強も剣道も最善を尽くす。
「文武両道」こそ勝利への道

剣道界に燦然と輝く「島原」の二文字。例年、全国大会で当たり前のように上位を席巻する同校は、現在校長職を務める渡邉孝経氏が赴任してから急激に成長を遂げた。部員に課すのは「文武両道」の徹底。「何事にも最善を尽くして取り組むことが、勝利につながっていく」と渡邉氏は言う。つねに結果を出し続ける島原高校剣道部は、いったいどのような稽古を積み重ねているのか―。

基礎基本という土台があるからこそ個性を特性に変えてゆける

渡邉孝経 総監督

わたなべ・たかつね●昭和35年生まれ、長崎県出身。島原高校から筑波大学に進学し、卒業後、郷里長崎で教職に就く。平成元年に母校である島原高校に赴任し、20余年で同校を全国トップのレベルにまで育て上げた。現在は同校の校長職に就いている

福田俊太郎 監督

ふくだ・しゅんたろう●昭和53年生まれ、長崎県出身。長崎東高校から鹿屋体育大学を経て、長崎で教職に就く。平成29年に島原高校に赴任。現在は渡邉校長に代わり同部の監督を務めている

剣道の指導者を育てたい 県予選2戦2敗からの挑戦

「母校に赴任したのは平成元年のときでした。なんとか島原高校を強豪校にしたい、この地から剣道の指導者になれるような選手を育成したいと思い、これまで30年近くの時間を生徒とともに費やしてきました。多くの卒業生が今も剣道に携わってくれているのは、指導者冥利に尽きます」今でこそ、剣道に関わるもので「島原」の名前を知らぬ者はいなくなったが、四半世紀以上前の島原高校はいわゆる部活動が盛んな進学校といったレベルだった。

創立から119年目となる島原高校は、県内有数の進学校。人間に与えられた時間は一日24時間と平等であり、勉強に重きを置けば当然部活動に割く時間は限られる。剣道部の実績がないのも致し方のないところだったが、若き日の渡邉孝経監督はそこをなんとか変えていきたいと思っていた。「今でも鮮明に覚えているのは、赴任して最初に挑んだ県大会のことです。

予選リーグで2戦2敗。とても悔しい思いをしました。この敗戦が、島原高校での指導者としての私のスタートラインです。まだ日本一という夢を描けるような状態にはなく、少しでも県で上位にいきたいという気持ちでした」赴任当初、渡邉監督にとって忘れることのできない大きな出来事があった。

雲仙普賢岳の噴火である。土石流や火砕流の被害をまともに受けた島原市民はそれぞれ安全な場所への避難を余儀なくされ、それは剣道部員も同様だった。当時は携帯電話も普及しておらず、生徒の所在すら把握できない。部活動以前に、学校の教育活動自体が支障をきたしているような状況だった。

散り散りになった部員たちは、隣町の体育館を借りて稽古を再開。やがて学校へは戻れるようになったが、市内を通る国道は封鎖されていたため、隣町に暮らす部員たちは通学に船を利用せざるを得なかった。降灰がひどく道場の窓を開けることはできない。とくに夏場は最悪の稽古環境であったが、そのような逆境を乗り越えて、島原高校剣道部は県の上位を席巻するようになっていった。監督就任5年目には個人戦ではあったが教え子がインターハイへと出場する。しかし、目標としていた団体での全国大会出場はなかなか達成できない悔しい状況が続いていた。



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