中心 剣道の技

「形」 と 「心」 の中心をとり、機をみて技を捨て切る

2020年12月14日

2020.3 KENDOJIDAI

「中心には形と心の二つがある」と松田勇人範士は語る。その二つを制し、捨て切った技で一本をとることこそ剣道の求めるべきところである、と。崩れのない攻めに定評のある松田範士に、中心をとることの重要性やそこから打突に至るまでのプロセスについて語ってもらった―。

松田勇人範士八段

まつだ・いさと/昭和32年生まれ、奈良県出身。清風高校から国士舘大学へと進学し、卒業後は郷里に戻って高校教員となる。主な戦績は全日本選手権大会3位、世界選手権大会出場、国体出場、全日本東西対抗大会出場など。全日本選抜八段優勝大会は、9回出場して3位に2度輝いている。現在は奈良市中央武道場をメインとして、各地で剣道指導にあたっている。

形で中心をとる心の中心をとる

中心を制するというと、相手の正中線に剣先を据えて攻めるというイメージを抱きがちですが、実際はそれだけではありません。中心には「形」と「心」の二つがあり、この二つを制することが大事であると私は考えています。

先に「心」の中心を制することについてお話をしていこうと思います。宮本武蔵は『五輪書』の中で〝構えありて、構えなし〟という教えを残しておりますが、心の中心を制するとは、まさにこのことかと思います。みなさんがよく目にする宮本武蔵の肖像画、二刀を下げて立っているものですが、あの姿に打ち込んでいける隙があるようにみえるでしょうか。打ち込んでいけばすぐさま対応される、一分の隙もないように私には感じられます。

これを剣道に置き換えれば、 「気位」であるとか「気構え」という言葉になるでしょう。形の上で中心をとっていなくても、心理的な攻め合いでは中心をとっている。これが一つ剣道の求めるところではないかと思います。

私は清風高校時代、大阪府警の小林三留先生(範士八段)に稽古をいただく機会が幾度となくありました。先生は稽古の中でよく剣先をスッと開いて攻めてくることがあったのですが、これを初心者が傍目から見ていたら、なぜ打っていかないのかと思うでしょう。しかし、実際に相対している私は、打っていける隙など微塵も感じることができませんでした。

打っていこうとすれば、開いていた剣先がパッと戻ってくる。まさしく、心の中心を制されていたのです。
国士舘大学時代も、形は違えど同じような感覚を得たことがあります。それは矢野博志先生(範士八段)との稽古です。矢野先生と構え合ってみると、その剣先から受ける圧力はすさまじく、まったく打てる気がしませんでした。形の上では私が中心をとった瞬間があっても、なぜか打ちに出ることができません。

実際は矢野先生が心の中心を取って私を制していたのです。「心の中心をとる」と聞くと、なんとも 理解しがたいようなものに感じますが、両先生に共通していたのはどんな場面においても左拳が動かないことでした。左拳は心を現わすとも言われます。左拳が動くのは、心が動いた証拠でもあるのです。

今でも思い出すのは、西善延先生(範士九段)に稽古をお願いしたときのことです。こちらがどんなに攻めても西先生の左拳が動くことはありませんでした。どうしようもなくなって打っていくと、もちろん西先生は崩れていませんから、迎え突きのようなかたちになります。自分の攻めの未熟さを痛感するとともに、西先生の肚の据わり具合、心の強さを実感した稽古でもありました。そしてもう一つ、 「形」で中心を制するとは、剣道の基本的な教えにもあるように、自身の剣先で相手の中心をとることです。 「三殺法」という教えがありますが、剣を殺し、技を殺し、気を殺す。

このうちの第一段階である剣を殺すことが、形で中心を制することになろうかと思います。剣先で中心をとるには、表裏の攻めや上下の攻め、そのほかにも多種多様な攻め方があります。その中で共通して大事にしたいのは、相手の竹刀を殺すこと、もっと分かりやすく言えば、相手の攻めの勢いを止めることです。

こちらが相手の中心を制していると言うことは、ほとんどの場合、相手の剣先はこちらの中心から外れているはずです。その状況でもし相手が打ち込んできたとしても、こちらはその技を容易に殺すことができますし、反対に打ち込んでいくことも可能になります。つねにこの状態が維持できていれば、攻守ともに盤石でいられるわけです。この攻めを実践しようと考えたときに大事になるのが、心の中心を制するときと同様に左拳を動かさないことです。

左拳が浮いてしまえば、剣先で相手の中心を制することなどできません。昔からの教え方として、 「竹刀は一升枡の範囲で動かしなさい」というものがあります。左拳を収めて、竹刀の身幅分程度の動きで相手の剣を殺していく。そうすることで、こちらは崩れることなく、相手を崩して打突の機会をつくることができるようになります。

雑念や迷いを振り払い覚悟を持って捨て切る

相手の中心を制したと仮定した場合、そこからすぐに打突につなげられるかというとそううまくはいきません。ここで大事になるのが「捨て切る」という気持ちです。これは私もまだまだ勉強途中であり、死ぬまで達成できないことかもしれません。

剣道を稽古すればするほど感じるのが、打突の好機に生じる雑念です。打とう、打たれまい、この気持ちが生じてしまうと捨て切った技を出すことはできません。時折、攻めもなく打突に出てくる方もいますが、これは捨て切っているのではなく無謀です。中心を制してそこからどのように捨て切るか、これが剣道の本筋であり、私がもっとも課題としているところでもあります。

「打って勝つな、勝って打て」の教えのとおり、剣道は攻めて打突をするまでの過程がとても重要です。むしろ、ここができていれば打った打たれたはただの結果とさえ言えます。捨てきれず、半気で打ってしまったり、迷ったりすることは修行の過程の中で当然の現象です。その雑念や迷いを日々の稽古で少しずつ削ぎ落としていく。これが剣道の修行です。

大きく言えば〝覚悟〟とも表現できるかと思います。

私はこの覚悟がなければ剣道を学んでいる意味がないと思いますし、その覚悟を生み出す肚を、稽古の中で錬っていきたいと考えています。そして「中心」とともに、今回のもう一つのテーマでもある「会心の一本」についてですが、これはここまで話してきた要素を一連の流れで表現することで生み出されるものだと思います。まず構えに気の充実が見られること。その後は、中心を攻めることのできる剣先の強さ、心の強さ、そして身体の強さが必要になります。心技体が一致していることが、中心を制する攻めにはとても大事です。

剣道は相手のいる競技です。こちらの思いどおりにいくことの方が少ないですし、相手にも打ちたい、打たれたくないという気持ちがある。そのやりとりのなかで合気になって中心をとることができれば、自然と相手に崩れが見えてくると思います。そこが打突の好機であり、あとは捨て切った技を出していくのみです。この技で相手をとらえれば、観る者の心を打つような会心の一本になるはずです。

左拳の位置を確認し、 盤石の構えで相手と構え合う



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