インタビュー

特別師弟対談:谷勝彦範士×中田勝巳八段

2021年2月8日

KENDOJIDAI 2018.9

5月上旬、わずか0.6%の狭き門をくぐり抜けて八段昇段を果たした中田勝巳氏。時を同じくして、谷勝彦氏は剣道界の最高峰である範士を受称した。師弟の間柄でもある両者に、昇段審査への心構えや取り組みについて、自身の経験をもとに語ってもらった―。

谷勝彦範士八段

たに・かつひこ/昭和32年生まれ、群馬県出身。新島学園高校から筑波大学へと進学し、卒業後、群馬県の高校教員となる。主な戦績として、第10回全日本選抜八段優勝大会優勝(2位2回)、全日本選手権大会出場、全国教職員大会団体優勝、全日本東西対抗大会出場などがある。平成30年5月、範士号受称

中田勝巳教士八段

なかだ・かつみ/昭和46年生まれ、群馬県出身。高崎商業高校時代に谷勝彦氏から指導を受け、インターハイで個人ベスト8に進出するなど活躍。卒業後は群馬県警に奉職し、全日本選手権をはじめとする各種全国大会に出場を果たした。現在は群馬県警察剣道師範、特練監督として後進の指導にあたる。平成30年5月、八段合格

いかに自主性、主体性をもって剣道に取り組めるか

―今年の5月、谷先生は範士に、中田先生は八段になられたわけですが、そもそものお二人の関係性からお聞きしてよろしいですか?

 私が高崎商業高校で教員をしていたとき、中田君が入学して剣道部に入部してきた。そのときからの関係です。八段に合格した先生を前にして言うのも変な話ですが、当時はまさかこれほどまでに活躍するとは思いませんでした。

―中田先生はなぜ高崎商業高校に進学しようと思ったのですか?

中田 実は、中学卒業をメドに剣道は辞めようと思っていました。進学先を決める段階になって、亡くなった父に高校でも剣道を続けた方が良いと勧められ、やるからには谷先生のもとで剣道がしたいと思って、高崎商業に進むことを決めました。

 私が高崎商業に赴任して2年目に、教え子をはじめて個人戦ですがインターハイに連れて行くことができました。中田君が入学してきたのは4年目のことだったと思います。当時の群馬県はいわゆる強豪校のレベルが競っていて、どの学校にもインターハイにいけるチャンスがありました。中田君は2年生のときに団体で、3年生のときに個人戦でインターハイに出場しているはずです。

中田 はい。高校2年生のとき、団体戦で兵庫県の赤穂で開催されたインターハイに出場しました。たしか高崎商業としては、34年ぶりのインターハイ団体出場だったと記憶しています。翌年は団体戦での出場が叶わず、個人戦のみインターハイに出場することができました。

 中田君の学年は男子が7名、女子が2名いたと思います。入学当時の中田君は身体もポチャッとしていて、正直なところ、どれくらいの素質があるかは私自身はかりかねているところがありました。ただ、夏休みに入る前までに体重もグッと落ちて、非常に稽古熱心だと感じていました。

中田 中学時代はあまり稽古をしていなかったもので、高校に入って一生懸命稽古をするようになってから、4ヶ月で14キロくらい痩せました。

 入学時点で中田君が飛び抜けて強かったかと言われれば、決してそうではありません。しかし努力家であったことは断言できます。当時は私も若かったので、かなり厳しい稽古を生徒たちに課していたと思いますが、しっかりとついてきてくれて、インターハイにも出場してくれました。

中田 谷先生はほぼ毎日、稽古にこられて私たちの元に立っておられました。私なりに心がけていたのは、先生が元に立っているときはかならず稽古をお願いするということです。部内では暗黙の了解で、稽古をお願いした翌日は掛からないというものがあったのですが(笑)、私は毎日お願いしていたと思います。

 インターハイに出場したいとか、勝ちたいとう気持ちがあるなら掛かってこいと、昔はよく生徒に言っていました。中田君がいつも掛かってきていたのはよく覚えています。中学で実績を残してきている人間は、剣道もすでにできあがっている部分が多く伸びしろが少ない場合もある。中田君は良くも悪くもクセのない剣道をしていて、充分な伸びしろを持っていると感じたので面白いと思っていました。

―当時の高崎商業は、どのような稽古をしていたのでしょうか?

 私が指導者の根本としていたのは、まず自分が試合に出て結果を残すことで背中を見せる。稽古も生徒のためというよりは、自分の稽古だと思って元に立っていました。もちろん生徒たちをインターハイに連れて行きたいという気持ちは持っていましたが、いわゆる試合に勝たせるためのだけ稽古は指導したくないという気持ちもありました。ですから、稽古の内容は基本が多かったと思いますし、かならず防具を着けて、生徒たちと一緒に強くなっていこうと考えていました。

中田 稽古時間は一日3時間ほどでしたが、そのうち2時間が基本だったと思います。私も高校に入って、基本を徹底的に指導されました。

 基本にもさまざまな解釈があると思います。たとえば切り返し一つとっても、ただ漫然と行なっているだけでは強くなることはできないでしょう。正面打ち、左右面打ちなど、打突の一つひとつを切り取って実戦を意識する。大きく振りかぶって打つ面打ちも、試合で使うことなどないと言う人もいますが、そういう大技の練習だと思えば意識が変わります。基本をただの基本で終わらせないことが大切だと、当時から生徒たちには伝えていたと思います。

中田 高崎商業は毎週月曜日が稽古休みだったのですが、この休みを使って何をするかが重要だと、よく谷先生には言われていました。土日は遠征に出ることも多かったので、部員で集まってビデオを見て研究することもありました。家に帰ってからは走り込みや素振りをそれぞれがしていたと思います。私も3年間、走り込みと素振りは続けていました。

 私からあれをしろ、これをしろと言うことはありませんでした。中田君の年代は素直な人間が多かったので、そういった見えない努力を続けていった結果が、インターハイの出場に結びついたのだと思います。道場にいるときだけが稽古ではなくて、帰ってから道場に戻ってくる間も稽古だよと、よく言っていたと思います。みんなと同じことをやっているだけでは差はつかない。いかに自主性、主体性をもって剣道に取り組めるかが、強くなる分かれ目、大成する分かれ目ではないかと思います。その意味では、中田君はその分かれ目をしっかり理解していたのだと思います。

中田 素質のなかった私が、なぜインターハイに出場できるまでになれたかと問われれば、それはやはり谷先生にご指導いただいた基本が根本にあると思います。先生は自分を崩して打つような技を指導されることはありませんでした。自分を崩すのではなくて、相手を崩して打つ。この重要性に早い段階で気づくことができたのは、先生のご指導の賜物だと感じています。

 剣道の打突には原理原則があります。そこから外れてしまうような指導は、将来、生徒たちが剣道を続けていく上で障害になると思っていました。私の指導を信じて、剣道を続けて八段にまでなってくれたのですから、これほどうれしいことはありません。



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