連載

剣道のとらえかた(⻆ 正武)

2021年4月26日

⻆ 正武(すみ・まさたけ)

昭和18年福岡県生まれ。筑紫丘高校から福岡学芸大学(現福岡教育大)に進み、卒業後、高校教諭を経て母校福岡教育大学に助手として戻る。福岡教育大学教授、同大学剣道部長を歴任。平成11年から14年全日本剣道連盟常任理事。第23回明治村剣道大会3位。第11回世界剣道選手権大会日本代表女子監督。著書に『剣道年代別稽古法』『剣道は基本だ』『人を育てる剣道』など。剣道範士八段。九州学生剣道連盟会長。

理に適うものを求めることこそが剣道

 齢七十三を越え躰の丈夫に助けられて今も稽古に勤しむことの幸せを感じつつ、未だに会得できぬ奥義の深さに苦行し続けております。三十二歳の秋に七段位を許されたのですが、当時の大先生方の剣技の妙は脳裏に焼き付いております。そのお姿(技の遣い振りや元立ちのあり様など)と、昨今の私自身の稽古の様とを比較して悩むことばかりです。今更ながら〝事理一致〟の修錬の重要性が身に浸みる思いでおります。

 剣道復興の翌年八歳で剣道に入門以来、七段位を許されるまでのおよそ二十四年間、多くの先生方にご教示いただき実直にそれを守り続けてきました。四十八歳で八段位を許されるまでの十六年間は、「道筋を誤ってはならぬ!」の一念を堅持して稽古に勤しんだものです。

 年に何回かの試合の体験も積極的に積みましたが、教職という立場上大学生を相手に稽古することが大部分で、高段位の先生方に懸かる機会はごく僅かでした。いずれの場合でも筋道に添わない剣道は決してやるまいと、心法・刀法・体法の全てにおいて理に叶うものを求めることこそが剣道を修める道と信じて取り組んだものです。

 今ではもう往時の先生方に直にご教示願うことは叶わず、記憶を辿ったり、わずかに残された書物を読み解く他に道はありません。それにしましても、昨今の剣道が競技性志向に偏重して、伝統性や修養道から逸脱しつつあるのではと危惧するのは私一人でしょうか。

「剣道の理念」や「剣道修錬の心構え」あるいは「剣道指導の心構え」を常々熟慮して、伝え残さねばならない責任を痛感して、浅学非才の身をも顧みず拙稿を呈することといたしました。

 剣道を愛し自らの修錬に正対して稽古に勤しんでおられる方々や、高段位をめざしておられる方々の思念の一助になれば望外の幸せと存じますとともに、至らぬ処を厳しくご指摘賜りたく念じております。

剣道は人生を豊かにする文化である

 申すまでもなく剣道の起源は、戦闘を生きぬく武技の鍛錬にあり、生死の間から体得伝承されたものと理解して間違いではありません。そしてその後には戦闘に臨んでの勝ち負け(生き様・死に様)には、それを越えた価値(名誉や廉恥)の存在を唱える時代へと移り進みます。さらに武家の支配が世の中の平静を保つこととなる江戸期に入ると、仏教や儒教思想と相俟って武術の修錬が武技一辺倒ではないと考えられる時代がやってきます。即ち武道の修錬は胆力を高め、徳操を深め、さらに仁義や礼節をも併せ求める修養の道へと昇華していくこととなるのです。

 その後近代に至って武道の捉え方が歪められた時期があったことも否めません。しかしながら現代にあっても武術の体得と共に羞恥心や胆力の涵養、あるいは仁義・礼節の心得を会得することなど修養道として剣道を修めることは、社会人としての高い教養の礎となることは間違いありません。

 剣道をまったくやったことのない人に、「何故あなたは剣道をやり続けるのですか?」と問われ、「汗臭く窮屈な防具を着けて、直接相手と打ち合ったり突いたりする相当に激しい運動のどこがおもしろいのですか?」と詰め寄られると、自問する良い機会に出会うことになります。

 剣道修錬の継続を支えるものは何なのでしょうか。斯く言う私自身は、「おもしろい」とか「楽しい」といった感情に動かされて稽古に臨んだ体験はありません。しかしながら稽古を終えた後の爽快な気分は、他のいかなる活動とは比べようもない程毎回必ず体感できるものです。剣道のもつ様々な要素(特性)が、人の生き様に非日常的な刺激を与えていると考えられます。



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