剣道自分史(佐藤成明) 連載

剣道自分史(佐藤成明)教育剣道の灯(その2)

2021年8月16日

2008.1 KENDOJIDAI

剣道に関する私の「自分史」の執筆を依頼されました。もとより修行途上の身、これまでに私は己の歩んできた人生をじっくりと振り返る余裕もなく、ただ前進あるのみの生活をしてきました。また、剣道に関するさしたる戦績や業績もありませんので「自分史」などとして公表することを躊躇しておりました。しかし、私の剣道人生は戦前戦後の剣道界激動の流れの中で先達がもがき苦しみながら今日の剣道界を構築した歴史の中で導かれ育てられて参りました。私が剣道の専門的な指導者になることを志してから五十年になろうとするこの機会に自身の拙い剣道人生を振り返るのもさらなる修行の一助ともなるであろうと思い、また、今日の恵まれた環境の中で剣道を修行する後輩諸君たちになんらかの参考にでもなれば幸甚と思い、執筆することにしました。

佐藤成明範士

さとう・なりあき/昭和13年栃木県生まれ、80歳。宇都宮高校から東京教育大学に進み、卒業後、同大学体育専攻科、さらに同大学院教育学研究科に進む。駒澤大学助教授を経て母校東京教育大学文部教官となり、筑波大学教授を最後に平成14年に退職。全日本選手権大会、世界大会、国体、全国教職員大会、全日本東西対抗大会などに出場。現在、筑波大学名誉教授。全日本学生剣道連盟会長代行。剣道範士八段。

宇都宮二里山道場
岩瀬鉾太郎や小島主も参加していた

 昭和二十九年、栃木県立宇都宮高等学校に入学してからも陸上競技部に籍を置きましたが、練習には全然身が入りませんでした。当然記録は伸びません。学業成績も下がる一方で悶々とする日々を送っていたある日、父から「剣道に行くぞ!」と道具を揃えてもらい、当時、県庁の裏山にあった「二里山道場」に連れていかれました。当時、この道場では岩瀬鉾太郎、谷田貝義春、蓬田喜一、小笠原三郎、金沢憲一郎、田崎雄佑、阿部鎮、小竹敏夫、黒後梅男、野口静夫、田熊新悦、堀内肖吉先生をはじめ多くの先生方が参加された月例稽古会と宇都宮市剣道連盟の稽古会が持たれていました。満州から引き揚げられて高原山の開墾作業をされていた小島主先生も時々参加されました。その時は拙宅に泊まられることが常でした。白ズボンに剣道着のスタイルです。そこから私の剣道人生が始まったようなものです。不器用ながらも一生懸命に稽古に取り組んでいたようです。周りの先生方の褒め言葉に励まされたことも多々ありました。

高校二年次、剣道部としての復活を認められながらも団体戦のメンバーも組めない有様でした。個人戦に出場しても連戦連敗(一度だけ新人戦で個人三位になっただけ)の状態でした。三年次になってようやく五人のメンバーが揃い、関東大会県予選で父の指導する今市高校を破って初優勝。群馬での関東大会では当然のごとくリーグ戦で敗退。僥倖にも県予選で優勝して会津若松市で開催された第三回全国高校剣道大会にも出場することができました。もちろん結果は予選リーグでの敗退でした。

昭和32年8月17日、第7回日光剣道大会三・四・五段の部優勝

 進学校での運動部活動には校内での練習は週に三日、一日の練習時間は一時間以内との厳しい取り決めがありました。正味五十分の稽古が勝負でした。校内での稽古不足は小笠原三郎先生の「竹風館道場」に通うことで補いました。館長先生をはじめ若手の旗頭であった粕田敏夫(前栃木県剣道連盟会長)、野尻義雄先生など多くの先生方にご指導をいただきました。

 当時のことを振り返りますと、剣道をやる環境と申しましょうか、周りの剣道に対する目は必ずしも好意的なものではなく、むしろ否定的、冷ややかなものでした。やれ「軍国主義の復活だ」「封建主義」「復古調」「右翼」「野蛮」などの罵声浴びることすらありました。今の学生諸君には想像もできないことでしょうが、学校での部活動などでも小さくなって遠慮をしながら練習場を借りることは当たり前で、ときには校庭の土の上で練習したなどという経験もありました。

 しかし、多くの批判や中傷があるなかで、別の方面からは「やはり剣道だ、剣道をやる若者は素晴らしい」「日本の心だ」「節度があり、折り目正しくて礼儀をわきまえている」などとの剣道肯定論あるいは剣道礼讃論、剣道待望論も耳にしたものでした。当時の私の日記帳にそんなことが記されていましたので、あえて臆面もなく今ここに記しています。

東京教育大学に入学
敗者復活からまさかのインカレ優勝



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