修養としての剣道 連載

稽古のあり方(⻆ 正武)

2022年1月3日

⻆ 正武(すみ・まさたけ)

昭和18年福岡県生まれ。筑紫丘高校から福岡学芸大学(現福岡教育大)に進み、卒業後、高校教諭を経て母校福岡教育大学に助手として戻る。福岡教育大学教授、同大学剣道部長を歴任。平成11年から14年全日本剣道連盟常任理事。第23回明治村剣道大会3位。第11回世界剣道選手権大会日本代表女子監督。著書に『剣道年代別稽古法』『剣道は基本だ』『人を育てる剣道』など。剣道範士八段。九州学生剣道連盟会長。

稽古の語義

 稽古とは申すまでもなく古(いにしえ)のことを考え調べるという意味に用いられ、武道や諸々の日本の伝統文化の分野で練習とは言わず稽古と言い慣れています。つまり現代に伝承されている技法や精神性について、創始の原点を常に心に留め置いて学習の域を越えた修行という概念を含むものと考えておくべきものです︒単に習い覚えて身につければよいというのではなく、錬り磨く鍛錬の過程を通じて己れ自身を顧みて、人間力の蓄積に励むという意味合いを強く持っていると理解しておかなければなりません。一方、練習やトレーニングというものは、ある目標を定めてそれに到達するための実践的営みをさし、動作などが目標に向かって合理的に改善進歩することを求めているものです。

つまり稽古には実践者自体の内面的変化(気の充実や心構え)を問題に把えていると考えておくべきです。

 例えば、試合することや審査を受けるという事象を考えたとき、勝つことのみ合格することのみに価値を置くという結果重視の立場に立てば、負けや不合格は失敗と受けとめることになります。しかし試合も審査も稽古の一部と把える過程重視の立場に立てば、己れを振り返る有効な契機と受けとめることになります。

 剣道技術の修得が、勝つため、合格するための手段と把えられたのでは、ややもすれば理法を外れた技を用いる形無しの剣道に陥ったり、形骸化したかたちにこだわって精神的要素の修得を忘れたりしやすいものです。しかもそれは更に技法の劣化にとどまらず、剣道修錬者のもっとも尊重しなければならない礼の精神性や廉恥心さえも失なって、技の習得を通しての人間性の涵養という、精神文化としての剣道を冒涜することにさえなりかねないことを知っておかねばなりません。

 稽古には、わざに内包される精神性(気や心の働き)を重視し、己れの現実を潔く省みて思念し続ける修行者としての態度が欠かせないのです。特に剣道のもつ対人性という特性から、わざに内包する精神性を学ぶ要素が多く、お相手によって自己の精神性の学びの機会が与えられることを重く受けとめておくべきです。そこに相互肯定の社会性の萌芽があると把えておくべきなのです。

 剣道修錬において勝負に勝つことを目標に掲げることは当然ですが、修錬の過程ではあくまでも主体者である自己と正面から向き合って、気や心の働きの向上を図るのです。〝気を収め気で勝って然る後理で打て〟と教えられている意味を深く探りたいものです。剣道の技法にはさまざまな制約があり、傍若無人の振る舞いは厳しくたしなめられており、抑制の中に自己実現を図ることが人間性の涵養につながる稽古内容であることを忘れてはなりません。構えや動作の美しさや打突の冴えを求めて理想に近づくには、〝百錬自得〟と教えられているように、常に自己との対話が欠かせないのです。

稽古内容の方向性



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