稽古方法 高校剣道

全国に〝水戸葵陵〟の名を知らしめた名監督・君島範親

2020年1月20日

※この記事は『剣道時代 2017年8月号』に掲載されたものです。

君島範親(きみしま・のりちか)監督が水戸葵陵高校の前身となる水戸短期大学附属水戸高校に赴任したのは、昭和62年のこと。以来、インターハイ団体優勝2回、個人優勝4名、高校選抜では準優勝2回など、数々の輝かしい実績を積み重ねてきた。

「〝勝たせ方〟を教えたことはありません。この30年、一貫して〝勝ち方〟を指導してきたつもりです」。高校剣道界で一際まばゆい光を放つ同校の剣道は、いったいどのようにしてかたちづくられているのか―。

誰もが憧れる〝葵陵の面〟。
生涯に渡って通用する剣道を身につける、その理念と稽古法とは。

君島範親(きみしま・のりちか)監督●昭和39年(1964年)生まれ、茨城県出身。水戸東武館で剣道をはじめ、国士舘高校から国士舘大学へと進学する。大学卒業後、昭和62年(1987年)に体育教師として水戸短期大学附属水戸高校(現・水戸葵陵高校)に赴任。監督生活30年余りの間に、インターハイ団体優勝2回、個人優勝4名など各種全国大会で輝かしい実績を残す

「私が教師になった当時、茨城の高校剣道は決して高いレベルにありませんでした。関東レベルの大会でも、茨城の高校と当たればラッキー。若いころの私は、そんな状況をなんとかして変えていきたいと思っていたんです」

 水戸葵陵高校を率いる名将・君島範親監督は、昔を懐かしむような表情でそう言った。今でこそ、茨城県と言えば男子は水戸葵陵、女子は守谷という全国制覇を複数回経験した強豪校が並び立ち、全国屈指のレベルを誇るようになった。しかし、そこまでの道のりは一筋縄ではなかったということだろう。

 君島監督は地元茨城の出身。国士舘高校から国士舘大学へと進学し、教職を志して郷里へと戻ってきた。赴任したのは水戸短期大学附属水戸高校。現在の水戸葵陵高校の前身である。

 当時の水戸短大附属水戸高校は、創立から2年しか経っていない新設校。剣道部のレベルは言わずもがなの状態だった。

まずは県で優勝することに目標を置いた君島監督は、当時強豪と言われていた学校に練習試合を申し込む。しかし、返ってくる答えは芳しいものではなかった。

「まだ自分たちはそのレベルになかったということでしょう。このときの悔しさが、私の指導に火をつけたと言ってもいいかもしれません」

 はじめて県予選を制してインターハイへの出場権を得たのは平成4年(1992年)のこと。

今でも、このときのことは鮮明に覚えているという。

 5月の連休、君島監督は部員を引き連れて和歌山で開催されていた錬成会に向かった。錬成会を主宰していたのは、国士舘の大先輩でもある上里昌輝氏。錬成会に訪れた君島監督を、上里氏は突然、思い切り叱りつけた。

「なんで今までこなかった!」

 君島監督にしてみれば、まだ県レベルでも勝てない状態で、全国区の錬成会に参加するのははばかられるという意識があったのかもしれない。しかし、上里氏にしてみれば、そんな遠慮こそ無用の長物だった。

「上里先生には、私が高校生のころから可愛がってもらっていました。本来であれば教師になった直後から、錬成会に参加させてくださいとお願いすべきだったのです」

 上里氏の怒りに最初は戸惑ったが、日が経つにつれ、怒りの奥にある優しさを身に染みて感じたという君島監督。その年、ついにインターハイに出ることができたのは偶然ではないだろう。

 徐々に力を蓄えてきた水戸短大附属水戸高校が、一気に名を上げたのは平成7年(1995年)。〝怪童〟と呼ばれた平岡右照選手を大将に据えた同校は、秋田で開催された魁星旗大会で全国大会初優勝。その勢いのまま臨んだインターハイでは、平岡選手が個人優勝を果たす。この年を経て、同校はいわゆる〝強豪校〟の仲間入りを果たした。

 平成8年(1996年)に同校は校名を「水戸葵陵高校」と改称。以降、次なる目標をインターハイでの団体優勝に据えた君島監督だったが、なかなかその機会が訪れることはなかった。平成13年(2001年)には鴻巣晃男選手がインターハイで同校2人目の個人優勝、翌年の地元インターハイは3位となり初の入賞を果たしたが、頂点には届かなかった。

 茨城インターハイを経て、自身の指導を顧みたという君島監督。

「チームの底上げが大事だと感じました。もともと素質のある中心選手に時間をかけるよりも、他の選手をより育てていかなければならないなと」

 そして、その結果が出たのが平成18年(2006年)の京都インターハイ。現在警視庁で剣道に励む遅野井直樹選手や金井佑太選手を中核とした同校は、ついに全国の頂点に立った。

「あのときのチームは、中学時代に活躍した選手がほとんどいませんでした。叩き上げてインターハイの優勝をつかんだという意味では、自分の指導に自信を持つことができた瞬間でもありました」

 一度優勝を手にしたチームは、それまでの苦い経験が嘘かのように結果が出る、というのはよく聞く話である。現在に至るまで、水戸葵陵はインターハイ団体優勝2回、個人優勝を4名輩出する、名実ともに剣道の名門校となった。

「なぜ結果が出たのかは、私自身も分かりません。ただ一つ言えるのは、信念を曲げなかったことです。私は子どもたちを勝たせてあげたいと思う一方で、〝勝たせ方〟ではなく〝勝ち方〟を一貫して指導してきたつもりです。それが今ではいろんな方々に評価していただける〝水戸葵陵の剣道〟になりました。勝てなくてもぶれずにやってきた、その結果ではないかと思っています」

日本三名園の一つである偕楽園からほど近くにある水戸葵陵高校。正門にはこれまでの剣道部の活躍を讃えるモニュメントが建てられていた

初のインターハイ出場は、水戸短大附属水戸高校時代の平成4年。
そのときのプラカードが、今でも道場に飾られている

高校剣士の憧れとも言える、水戸葵陵高校の胴。
将来、この胴をつけて全国制覇を達成したいと、全国各地から入部希望者が訪れる

打たれないのではなく打つ剣道を

〝勝たせ方〟と〝勝ち方〟。非常に似た言葉であるが、君島監督にとっては似て非なるもののようだ。そこにはどのような違いがあるのか。



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