2020.5 KENDOJIDAI
令和になって初めて行なわれた横浜七段戦を制した中野貴裕選手。選手生命の危機とすら思われた怪我と向き合い、一戦一戦を戦い抜いた覚悟の先に、優勝があった。ここ数年の試行錯誤とともに、優勝までの道のりをふりかえってもらった。
プロフィール
中野貴裕(なかの・たかひろ)/昭和55年京都府京都市生まれ、40歳。大枝誠心館で竹刀を握り、日吉ヶ丘高、法政大を経て京都府警察に奉職。全日本選手権ベスト8、世界大会出場、全日本東西対抗大会出場、国体2位、全日本都道府県対抗大会2位、全国警察大会団体1部3位個人2位2回など。今年2月に行われた横浜七段戦で初出場初優勝を果たした。現在、京都府舞鶴警察署勤務。剣道教士七段
覚悟が決まった七段戦
迷いなく決めた面一本
令和になって初めて行なわれた全日本選抜剣道七段選手権大会(横浜七段戦)は、初出場の中野貴裕選手の優勝で幕を閉じた。出場者の中でもやや小柄な中野選手、さながら「牛若丸」のような軽妙な動きと鋭い打突で日本・韓国を代表する七段剣士たちの頂点に立った。
「オファーをいただいたのが半年前です。私は特練引退後(2015年)ほとんど試合の機会がなく、また、足の怪我のこともあったので、覚悟を決めて取り組みました。『やるからには恥ずかしくない試合をしたい』という思いがありましたし、また、出場選手の中には世界大会でともに戦ったメンバーもいました。私は世界大会前に大きな怪我をして迷惑をかけていたので、ここで剣を交えること、結果を出すことが恩返しになると思いました」
中野選手は現在京都市からおよそ2時間先にある舞鶴署の警務係長として庶務全般に携わる立場であり、普段は仕事に忙殺されている。時間が許す限り往復4時間かけて京都市内への稽古に出向き、コンディションを整えてきた。
試合当日、調子の良さを感じていたという。「最近は本当に試合の機会がなく、試合勘について不安もありましたが、当日は動きも悪くなかったと思います。ただ、緒戦で権瓶(功泰)先生に引き面を打たれ、勝負の厳しさを教えてもらいました。引き技を打たれるということは、『ここで油断したらダメなんだよ』ということです。ただ、1回負けたとしても、予選リーグを上がるチャンスはありましたので、焦りはありませんでした。『1敗しても取り返せばいい』という考えでした」
七段戦は4名ないし5名での予選リーグを勝ち抜いた上位2名が準々決勝に進出するシステム。5名のリーグに組み込まれた中野選手は、権瓶選手との対戦のあと古川耕輔選手、岩下智久選手と引き分け、リーグ最終戦を残した時点で1敗2分とかなり厳しい状況に追い込まれていた。
「同級生の古川選手と『俺らがいくしかないよな』といった話をして励まし合って、それで若生(大輔)先生との試合に臨みました。二本をとりにいくつもりでした。後から考えると一本勝ちでもよかったのですが、二本を取りに行くという気迫がよかったのだと思います」
若生選手とのリーグ最終戦、初太刀に目の覚めるような面を決めたが、この一太刀に中野選手の覚悟があらわれていた。さらに中盤で相手の左胴を鮮やかに打ち、二本勝ち。リーグ突破を決めた。
「私は足を怪我しているのでどうしても右の胴を打つ時、動きが遅くなってしまうので打つなら左胴である、と。左胴は兒玉義明先生(元京都府警察師範)がよく遣われていて、先生方の動作を思い出しながら研究してきました。その成果が出たのかもしれません」
この一戦を経て、さらに剣道が研ぎ澄まされていった。準々決勝、準決勝においてもそれぞれ朝比奈一生選手、内村良一選手に二本勝ちし、決勝戦へと進む。中野選手がもっとも得意とする小手技が光っていた。決勝の相手は大学の先輩にあたる岩下選手だった。
「決勝は手も足もつっていて、疲れもありましたが、迷いはなかったと思います」
迷いなく、攻め続けて、自分の持ち味であるところを中心に胸を借りるだけだった。一戦一戦戦い抜いた。迷いなく覚悟を決めて、勝負に出る。
意外にも、個人タイトルが初めて。
「今までの剣道人生で、本当に2位が多かったんです。全国警察選手権(個人戦)も2位ですし、国体も2位、全日本都道府県対抗も2位、インターハイ(個人)も2位。やっぱり一番じゃないと、ということは先輩からも言われたことがありました(一番を目指すという気持ちの強さについて)。
2位が多かったので、1位になって恩返しをしたかったというのがありました。練習量が豊富だった特練員時代ではなく、稽古時間がなかなか取れない今の時期に優勝させていただいたことに人生の不思議さを感じました。剣道に対する気持ちというのは今も昔も変わらないのですが……。幸い、職場環境にとても恵まれて、上司・同僚に快く送りだしていただき、仕事にまい進できています。そのおかげで、稽古にも集中できました。皆さんのおかげで優勝することができたと思います」
時間がない中での稽古
往復4時間で特練員と汗を流す
現在、京都市からおよそ2時間先にある舞鶴署で勤務する中野選手。警務係長として署員全員についての庶務を担当している。
剣道環境については、舞鶴署において術科教師として一般の署員たちを指導する立場にあり、自分の稽古となると求めて外に出る必要があった。
とくに試合前の時期は、しばしば京都市内まで出向き、京都府警の後輩・剣道特練員たちに協力してもらったという。
「松井祐一選手、合屋龍選手、井上仁選手、末廣寿亮選手の4名はとくに休日も付き合ってくれました。私との稽古は余暇をつかって、ということになるので、高橋英明師範、西川忠男監督、特練員たちにはご迷惑になったと思います。しかし、快く『いつでも道場にきてもいいよ』と、平日の通常の稽古にも参加させてもらいました。特練員たちの稽古は綿密に計画立てて行なわれている中、ご理解をいただいたこと、感謝の念にたえません」
おもに行なったのは、七段戦を想定した、4名ないし5名でのリーグ戦。
「ウォーミングアップをしたあと、リーグ戦を行なって、その後内容を反省・検討し、そして技の練習を行うといった流れでした。それをずっと付き合ってくれました。特練員たちには私のわがままに応えてもらって、回数もかなりやりました。
お互いに反省・検討の面がありますし、私も指導者という立場であるので、アドバイスもしました。試合になればプレッシャーのかかり方が変わってくるので、『僕だから打てていないけど、今の技は現役の特練員だったら打たれているよ』などの話もしました。『僕だから打てていないけど』、というのは自分自身に対する甘さを実感する場面でもあります。アドバイスをしながら、『こういう場面で打てていない、体が動いていない』など、自分の反省をしました。お互いに勉強になったと思います」
特練員たちも、自らの体調管理や家族、諸用事などもある中で稽古に付き合ってくれた。
「途中、先輩との付き合いで大変ではないかと思うこともありましたが、後輩たちも進んで『先輩、今日はやりませんか』と誘ってくれたこともあり、ありがたかったです。稽古量豊富な特練員たちとの練習はハードでしたが、質の高い稽古ができました。この稽古がなければ、優勝は実現できなかったと思います。私は本当に恵まれていて、職場の方々や家族にも応援してもらってきました。感謝を忘れたらいけないなと思います」
優勝した今、実感するのは、職場である舞鶴警察署や、高橋英明師範をはじめとする剣道特練員たち、また、家族など、自分が剣道をやるにあたってお世話になっている方々への感謝の思いだった。
大怪我を通じて感じた事
環境は与えられているもの
2012年(平成24年・33歳)、5月に行なわれる世界大会出場が決定した矢先、中野選手にとって剣道人生が大きく変わる出来事があった。
左ハムストリング総腱抜け落ち断裂。通常のアキレス腱断裂などとは違い、通常骨とつながっているハムストリングの両端が骨から抜け落ちてしまうものだ。この怪我によって、8時間に及ぶ大手術の後、手術をした埼玉県の病院に2ヶ月入院、かつ2年間剣道がほぼできない状態を過ごした。
「2ヶ月は体を動かさないまま、寝たきりの状態でした。素振り程度はしたかったのですが、振ると足さばきもしたくなるので、竹刀もほぼ握ることはありませんでした。はじめのリハビリは、お尻の筋肉に力を入れる・抜くといった簡単なものです。面を着けたのは、手術から2年後でした」
この怪我は、ずっとこれからも付き合っていかなければいけないもの。普段から左足のケアを行なわないと筋肉が固まってしまう。
「私が剣道をするには、稽古前に、常に左足のリハビリを行なう必要があります。運転で2時間かけて出稽古先にいくと、筋肉が固まってしまって運動ができません。ほぐしてから行なう必要があります。七段戦前では時間が限られている中、左足の懸念を頭に入れながら勝ち抜くためには、違う技を取り入れて、相手のデータの中にない技をつくろうと考えました。たとえば、先ほど申し上げた左胴です。今までは右胴を打つ技を使うことが多くありましたが、今回に向けては左胴の研究もしました。今回一本が決まりましたが、それで自分の剣道の世界が広がった気がします。新しい技を打てるという自信がついたので、他の技にも
つながっていきました」
また、前述の剣道特練員たちとの稽古で試合勘を取り戻しながら、舞鶴の少年剣道の稽古に参加、面を着ける回数を増やした。
「少年剣士相手でも、面を通して相手を見る回数をつくる、面を着けて相手と対峙する回数を大事にしたいと考えていました。相手が誰であろうと、面を着けて相手と対峙すると緊張感が走ります。すごく自分にとってもためになりました」
剣道のために時間を割いて稽古に臨めば、時間の貴重さも身に染みる。
「剣道に向き合える時間がありすぎても見えないこともあるんですね。もちろん特練員時代も剣道に向かう時間を大切にしていたつもりでしたが、時間がない今、あらためて実感しました。1分1秒も無駄にせずに取り組みたいですし、また、環境を与えてくれている周囲の方々への感謝も実感しました。皆さんの協力のおかげです。また、手術をしてくださった仁賀定雄先生、リハビリの吉田昌平先生にはずっと協力していただいてきました。本当にありがたいことです」
怪我をした2012年のわずか2年後、全日本選手権に出場した中野選手はベスト8の成績を出した。怪我の大きさから言えば「奇跡」と言われるほどだったが、さらに6年後の2020年(令和2年)、横浜七段戦優勝というかたちで結果を示した。
「剣道は常に一所懸命。それは当たり前ですが、怪我をした時には『環境を与えられている』ということの有難さを痛感しました。2年間も竹刀を握っていませんでしたが、戻れるという保証もない中、剣道特練員に入れていただいていました。
『中野はフリーでリハビリしてきなさい。道場に入りたかったら道場に入りなさい』と、信頼する言葉もいただいていました。そうしたことがあったので、『このままでは終われない』、どうしても恩返ししたかったので、結果が出たことはよかったと思っています」
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