2024.7 KENDOJIDAI
構成=寺岡智之
撮影=西口邦彦
常勝・九州学院を率いる米田敏郎教士は、表裏の剣さばきこそ自身の攻めの根幹だと語る。「表と裏を攻める中で相手を不充分な状態に置くことが重要です」。そう話す米田教士に、日々実践する剣遣いの要点や思考について語ってもらったー。
米田敏郎 教士八段
こめだ・としろう/昭和44年生まれ、熊本県出身。九州学院高校から中央大学に進学し、卒業後は熊本に戻って母校で教鞭を執る。これまでインターハイや全国選抜、玉竜旗など各種全国大会で教え子を日本一に育て上げている名将。教え子には内村良一や西村英久、星子啓太など全日本選手権者も多数いる。自身も八段昇段を果たした
基礎基本を学んだ高校時代
衝撃を受けた全日本選手権
私の剣道の基礎基本は高校時代にかたちづくられました。とくに恩師である亀井徹範士との稽古は、苦しくて仕方がありませんでしたが今につながる良い経験になったと感じています。日々の稽古は構えた瞬間からつねに攻め続けられているような感覚で、ときには自分の動きが止まるような厳しい攻め方や、虚しさを感じるような引き出し方ですべてをコントロールされていました。私が良い感じで技を出せた記憶はほとんどありません。しかし、その経験が今の私の攻めに対する指導にも活かされています。
剣先における表裏の攻めについては、自身の体験・経験を通じて意識するようになっていきました。私は身体能力も高くなければ、秀でた技倆を持ち合わせているわけでもありません。自分に自信がないからこそ、持っている力を100%発揮するために、自分自身を分析して特長を伸ばすことを日々考えてきました。その一つが剣さばきであり、表裏の攻めだったわけです。
とくに意識をし始めたのは、私が選手として全日本選手権に出場していたころだったと思います。対戦させていただいた石田利也先生や宮崎正裕先生の剣さばきは、当時の私にとって衝撃でした。石田先生は剣先が大きく見えるほどの圧がありましたし、宮崎先生の剣さばきはまるで竹刀が生きているかのようでした。こちらが崩れていないつもりでも、気づいたときには私の竹刀をかいくぐって部位をとらえている。あのとき受けた感覚は今でも鮮明に覚えています。体格で劣る私はとくに宮崎先生の柔らかく強い攻めに感銘を受け、自分もそのような剣遣いをしたいと研究するようになりました。
なぜ宮崎先生の剣先が生きているように感じたのか。考え抜く中で出た一つの答えは、私が宮崎先生に攻めを利かせられていたということです。剣道というものはしっかりと中心をとって構えることができていれば、容易に打たれることはありません。しかし、それでも打たれたということは、私が気づかないうちに動かされたり浮かされたりしていたということ
でしょう。相手に攻めを利かすとはどういうことか、そして、そのためにはどのような剣さばきが必要なのか。前述したような経験を経て、深く考えるようになっていきました。
剣先は情報を得るための触角
表裏の攻めで相手を不充分な状態に置く
攻めが利くとは剣道でよく使われる用語ですが、これを紐解いてみると、一つは相手に危機感を与えるという意味があると思います。「危ない」「打たれるかもしれない」と思うからこそ、その攻めに対する動きが生じ、そこに打突の好機を見出せるわけです。
翻って、相手にそういった感覚を抱かせないのも、攻めの方法の一つだと思います。こちらが強く攻め過ぎれば、相手は防御一辺倒になります。そうなれば、最終目標である有効打突には結びついていきません。強すぎず弱すぎず、絶妙な匙加減で攻める必要があるわけです。その匙加減こそ、剣先による表裏の攻めで表現できる部分なのかなと思います。
私は生徒への指導の際、剣先を触角や手のひらに例えることがあります。触角や手のひらはさまざまな情報を得るためのセンサーのような役割を担っています。私も剣先を通じて相手の意図を感じることを心がけていますし、相手の考えや動きが読めれば、どんな攻めや技を選択していけばよいのかも自ずと見えてきます。
剣先が触れ合った状態において、まずやらなければならないのは中心をとることです。私にとって中心をとるとは、相手の正中線を制するということだけではありません。心の中心をとることが、攻め合いにおいて何よりも大事だと考えています。
心の中心というととても曖昧な表現ですが、相手を不充分な状態に置く、と言えば少し理解しやすいかと思います。例えば表の攻めで相手の竹刀を上から制する。相手が打って出るためには私の竹刀を越えてこなければなりませんから、充分な状態とは言えないでしょう。裏から中心を攻めた場合も同様で、私の竹刀が自由を奪っているわけですから、相手にとってみれば思い通りの攻めや打突を実践できないストレスがあるわけです。こういった攻めを繰り返すことで、相手の心に動揺を生み、機会をつくり出していくのが私の攻めの根幹にあります。
「つくる」機会と「できる」機会
結果でなく過程を重視すること
そもそも打突の機会というものは、すべてが自分でつくり出せるものではないと私は考えています。もっと言えば、機会には「つくる」ものと「できる」ものがあるというのが、私の持論です。
対人競技である剣道は、お互いが相手を打つためにさまざまな攻めを施します。一所懸命に機会をつくり出そうとするわけですが、そんなに思い通りにはいきません。一つ例を出せば、お互いが攻め合う中でフッと冷静になったときに、相手が強引に出てくる。これは自分で「つくり出した」機会ではなく、その場面において心に余裕を持ったからこそ「できた」機会です。これも打突につながる大事な機会ですから逃したくはありません。自分で機会をつくり出していくことはもちろん、できた機会は逃さずとらえること。この両面を求めていくことによって、有効打突になる確率を高めていくことができると考えています。
最後に私自身の八段審査に向けた取り組みについてもお話ししておこうと思います。私は9回目の挑戦で合格をいただくことができましたが、合格までの道のりは紆余曲折がありました。
失敗と研究を繰り返す中で気づいたのは、打った打たれたに固執せず、そこまでの過程を重視するということです。どうしたら充実した攻めを表現できるか。そこを注視した結果、立合での浮き沈みがなくなり、自然と打った打たれたに気がいかなくなっていきました。充実した攻めとは結局のところ、生きた剣遣いであり、相手の心の中心をとることです。これまで歩んできた道が一本の線でつながったようで、合格をいただいた立合では、自分の目指した剣道が表現できたと感じています。
残りの記事は 剣道時代インターナショナル 有料会員の方のみご覧いただけます
No Comments