インタビュー

「残心は次への準備」剣道を通じて教わった人生の道標

2025年2月19日

2024.11 KENDOJIDAI

立見顕久

たつみ・あきひさ/昭和47年兵庫県生まれ。相生高から京都産業大に進み、卒業後三井住友海上火災保険株式会社に入社、現在に至る。剣道教士八段

痛みと教えが詰まった
金谷先生の面打ち

 私の家族は、父が会社員で剣道教士七段の指導者、四歳年上の姉も四歳年下の妹も剣道を習っており五人家族で母だけが剣道をしていない、いわゆる剣道一家で育ちました。

 小学二年生から父や姉の影響から、大阪市豊中剣友会大池道場で剣道を習い始めました。当時の私はスイミングスクールとピアノ教室に加えて三番目の習い事として剣道を始めましたが「習い事は一つに絞った方が良い」との父母の考えから、剣道に絞られていきました。剣道初心者の一年間は、大池道場の先生方に面を付けない「礼法」と「基本」中心の剣道を丁寧にご指導いただきました。

 その後、母の実家・兵庫県たつの市に小学三年生の時に転居しました。たつの市は、童謡「赤とんぼ」の作詞者である三木露風の生誕地です。また、素麺で有名な「揖保乃糸」の生産地でもあります。元小学校の教員であった母からはいつも「自然豊かな土地だからこそ、三木露風は赤とんぼの詞が書けたし、きれいな揖保川の水と赤穂の塩があったから美味しい素麺が作れたのですよ」と教えられました。

 転校後の学校生活にも少し慣れた頃、父の知人が教えている隣町相生市の相生若竹会に中学三年生までお世話になる事になりました。

 当時の相生若竹会の部員は百人近くおり、先輩方は毎週大会に出かけては優勝旗を持って帰ってくる、強豪道場に所属する事になりました。

 私は、姉のおさがりの剣道具であまり気乗りしない道場通いでしたが、やがて新しい剣道具を買ってもらい、小学五年生頃から選手に選ばれたのを機に、少しずつ気持ちが変わってきた様に思います。そして先輩同様、選手になってからは毎週末が試合という多忙な日が続きました。

 相生若竹会は週四回の稽古があり、厳しい指導者の先生方が多く、子供の頃は道場通いが嫌でした。しかし大人になった今、仕事が終わって疲れている先生方が少年剣士の指導で道場に駆けつけるのは、本当に大変だったと思います。その先生方の熱心なご指導があったからこそ、今の自分があるものと感謝しております。

 相生若竹会の指導者の中でも、私が選手時代に監督をされ、稽古や試合や私生活までも見守って頂いたのが故金谷寛先生でした。

 金谷先生のご指導は大変厳しいものがありました。稽古は、基本→応じ技→試合稽古→指導稽古→掛かり稽古という内容でしたが、先生はいつも目を光らせているので、いつも緊張感のある雰囲気でした。

 ある時の指導稽古で先生に掛かった際、面布団を打たれた時の痛さは今でも忘れません。子供心に「子供に対して真剣に打って、何て酷い事をする先生だ!」と心で叫んでいた事を思い出します。そして「かかり稽古」では辛い思い出しかありません。元立ちの先生や上級生に掛かるのですが、足腰が立たなくなる程かかり稽古をした事を思い出します。

 しかし今となれば、金谷先生に面布団を打たれた時の痛みや、厳しいかかり稽古は、打ち終わった後の「残心」の大切さや、「打つべき機会」を教えてくださったのだと思います。

 先生はよく小学生に「残心=次への準備」と分かりやすく説明をされました。時には私生活においても「服を脱いだら畳む」「靴を脱いだら揃える」「食事が終わったら食器を片付ける」等、残心の大切さをご指導頂きました。

 剣道では「残心」が疎かであれば、次への準備が遅れ相手に打たれる。一方、残心が出来ていれば、次への準備が出来ているので相手の隙が見え、打つべき機会に打てる。と教わりました。後進を指導する機会が増えた今日、金谷先生に教わった「残心」や「誰であっても真剣勝負」を大切にしていきたいと思います。

人としての生き方を伝えた
保積克彦先生



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