インタビュー

縁に導かれて(緒方 有希)

2025年6月30日

優勝記念に作成した手ぬぐいにしたためた言葉は「ご縁と生きる」。「自分一人で乗り越えようとか、自分の中だけに答えを求めようとしていたら、今回の優勝は絶対になかったと思います」。一度は競技者を引退して指導に身を捧げた緒方教士が、いくつもの〝縁〟に導かれてふたたび日本一の頂へー。その道のりは唯一無二の物語だ。

文=寺岡智之
写真=西口邦彦
※本記事内の画像の無断転載・無断使用を固く禁じます。

緒方 有希

昭和54年生まれ、熊本県菊池市出身。小学2年生で剣道をはじめ、菊池南中3年時に全国中学校大会で個人優勝を果たす。熊本市立高校(現・必由館高校)から鹿屋体育大に進学し、卒業後は郷里に戻って中学校教員を務める。平成15年、第42回全日本女子選手権大会優勝。平成18年より菊池女子高校で教鞭を執り、翌年は日本代表として第13回世界選手権大会にも出場を果たした。現在も菊池女子高校を指導するかたわら、全国区の大会で活躍を見せている。剣道教士七段

「もう一回切りなさい」
優しい母の愛ある言葉

 風の噂で「女子の七段戦が開催されるらしい」という話が聞こえてきたのは、昨年の夏ごろ。このとき、緒方有希教士は自分を見失っている最中だった。令和5年2月26日、緒方教士はとある試合中に足に力が入らず、その場にペタンと座り込んだ。「変な座り方をしちゃったな」と思い立ち上がろうと試みるも、床が抜けてしまったかのように崩れ落ちる。数度試して「これはダメなヤツだ」と理解し、主審に両手で大きくバツをつくって棄権を知らせた。前十字靭帯の断裂だった。

 手術を決断し、厳しいリハビリを経て試合復帰を果たしたのは丸一年後。このあたりから、緒方教士の胸中は揺れに揺れた。「私のメインは子どもたちの指導。自分が試合に出ることにどれだけの意味があるのか」。そんなことを日々思っていたが、復帰の報を受けて、周囲はいくつもの大会参加を持ちかけてくる。「待ってくれている方がいるのだから、参加し続けなきゃいけないのかな」と不安定な気持ちのまま出場した全日本東西対抗や全日本都道府県大会は、自分自身にガッカリするほど惨憺たるありさまだった。

 そんな状況下で流れてきた女子七段戦開催の知らせ。

「せっかくこんなにも素晴らしい大会が開かれるのに、ワクワクしなかったんです。とにかく怖い、分からない、どうしようという気持ちが先立っていました」

 女子七段戦出場にあたり、緒方教士が最初に相談したのは、他ならぬ母・和代さんだった。「私、分からない。試合に出続ける意味、あるのかな」。母に弱音を吐いたのは人生で初めて。もしかしたら、いつも優しい母に慰めてもらいたかったのかもしれない。「また切ったらどうしよう」と弱気の虫がとめどなく顔を出す。そのとき、緒方教士は流れる涙を抑えきれなかったそうだ。和代さんは緒方教士の話をひとしきり聞いた後、次のように言葉を投げた。

「もう一回切りなさい。切ってから考えたらいいじゃない」

 予想だにしないこの言葉に、緒方教士はハッとした。自分が中途半端な気持ちで大会に出場していたことに気づかされたのだ。実はこのとき、和代さんは癌を患っていた。美容師をしている和代さんは、抗がん剤の影響で髪の毛が抜け落ちて以降、外出をためらうことが増えた。そんな母が緒方教士の気持ちを汲み取り、9月末に出場を予定していた国民スポーツ大会を応援に行くと言い出したとき、緒方教士は心のスイッチが「バチッ」と音を立てたのが分かった。

 勇んで向かった国スポは、1回戦で埼玉と対戦。相手は「勝ったことがない」という、女子剣道界のレジェンド・村山千夏選手だった。

「これは舞台がそろった、やるしかないという気持ちで臨んだのですが、しっかり負けました。せっかくヤル気スイッチが入ったのに、勝負ってなんて残酷なんだろうと。このまま七段戦を迎えても絶対に中途半端になると思って、やり方を変えていく決意をしたんです」

必ず日本一にならなければいけない
名将との悪魔の契約



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