インタビュー

大阪府警察から鹿屋体育大学へ(大城戸 知)

2025年9月15日

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2025.10 KENDOJIDAI

撮影=笹井タカマサ
*本記事に掲載された画像の無断転載・使用を固く禁じます。

2018年、第17回世界剣道選手権大会日本代表主将の大城戸知教士が4月より母校鹿屋体育大学准教授に就任した。同時に剣道部監督(男女)となり、新しいステージで学生たちと汗を流す生活が始まった。

大城戸 知

おおきど・さとる/昭和59年愛媛県生まれ。新田高校から鹿屋体育大学に進学し、卒業後は大阪府警察に奉職する。全日本選手権出場、世界選手権団体優勝(第17回大会主将)・個人出場、全国警察官大会団体・個人優勝など。本年4月、母校鹿屋体育大学に戻り、後進の指導にあたることになった。現在、鹿屋体育大学准教授、剣道部監督。剣道教士七段(撮影=西口邦彦)。

急転直下の転身
17年ぶりに鹿体大に戻る

 2025年4月1日、大城戸教士が大阪府警察の職を辞し、母校鹿屋体育大学准教授となった。3年前に安藤翔氏が北海道警察から国士舘大学教員になるなど、抜群の競技実績を残した一流剣士が大学教員に転職する事例が増えてきた。

「昨年、母校で新たな人事が起こるというお話をいただきました。大阪府警察には17年間大変お世話になり、府警の指導者として骨を埋めると思っていたので、本当に悩みに悩んでの決断となりました。いろいろな方と相談した上で、表現が大袈裟かもしれませんが〝一度きりの人生〟だと腹を括り挑戦することを決めました」

 剣道指導が主軸の職務とはいえ、アカデミックの世界は未知。不安はなかったのだろうか。「不安がないと言えば嘘になりますが、剣道をより深く探求・研究していける環境や、今まで自身が経験したことや培ってきたものを、実践知として学生達にダイレクトに還元できることなど、未知の世界に挑戦することで、自分に何ができるのだろうかという思いの方が強かったですね」

 晴れて採用となり、4月から鹿屋体育大学准教授に就任するとともに剣道部監督となった。指導は前阪茂樹部長、竹中健太郎総監督の3人体制だ。「両先生から初年度より男女監督を任せていただきました。5月に開催された九州学生剣道選手権大会、西日本学生剣道大会では監督として選手のオーダーなどすべて一任していただき、身が引き締まる思いでした。学生たちの頑張りで接戦を勝ち切ることができ、男女ともに優勝することができました。率直に今まで自分が試合で勝ったよりも嬉しかったです。鹿屋に来てから3ヶ月が経ち、やっとですが部員の顔と名前が一致してきました」

 鹿屋体育大学の稽古は月曜日から土曜日までの6日間。会議などがない限り、すべて参加して学生たちと汗を流している。

「私自身も稽古に取り組み、さらなる高みをめざしていかなければなりません。ともに汗を流し、学生に対して取り組む姿を見せることも大事で、今後は自身の積み上げてきた知見を実践・研究をもとに、鹿屋体育大学が推進するジャーナル・スポーツパフォーマンス研究において学術的にどう評価されるのかなどを研究していくことが求められます。その意味でやるべきことが山積みで、今は日々とても充実しております」

専門家養成大学の使命
本質を大事に、幹を太くする

 鹿屋体育大学の開学は1981年、日本で唯一の国立体育大学だ。初代主任教授は谷口安則範士九段がつとめた。

「私は2003年の入学ですので、20期生になります。本学は剣道に集中できる環境が整っていますので、仲間と切磋琢磨しながら4年間、剣道を中心とする充実した学生生活をまっとうすることができました。18年ぶりに教員として鹿屋に戻ってきましたが、男子の安田祐也主将(島原高校出身)、女子の宮田陽子主将(明豊高校出身)を中心にとても雰囲気も良く、学生たちが自分たちの意思で剣道に向き合う姿勢が本当に素晴らしいなと感じており頭が下がる思いです」

 鹿屋体育大学の剣道は〝攻撃剣道〟。技で展開を作っていくことを念頭に置き、日々の稽古に取り組んでいる。掛かり手1人が、3人の元立ちに連続で掛かっていく「三段稽古」が大きな特徴だ。「三段稽古は谷口先生が考案された稽古法です。本学ではこの三段稽古を核として、剣道の地力をつけることを目的に稽古を展開しています。学生には日々稽古を工夫することを常々言っております。『打ち切ること』『縁を切らないこと』『現状に満足しないこと』が大事です。私もこの稽古で大いに鍛えられた一人です。いま鹿屋体育大学剣道部は115名が在籍しており剣道の専門家としての技術を習得させることも大事ですが、競技性のみならず剣道の持つ伝統性、つまり『伝統の継承と合理性の追求』も大事に指導をしたいと考えています。枝葉だけではなく、剣道専門家としての幹を太くする剣道が自身もですが理想であると考えております」

 それぞれが高い目標と目的意識を持ち、学生生活と積極的に向き合う姿勢が学生には求められる。「115人の部員で公式戦に出場できる選手はごくわずかです。試合で優秀な成績を収めることは大事ではありますが、それだけに偏ってしまうと、本学で学ぶ意味がありません。ありきたりの表現になりますが、武道としての剣道の特性を理解すること、実践できることが大きな目的となります。私も先生方や、学生たちと一緒に意見交換もしながら取り組んでいるところです。指導者としてはまだまだ未熟ですので、私が学生時代の監督であった前阪部長からは剣道の伝統的特性や稽古法などを学んでいます。竹中総監督は昨年まで本学の監督であり、現在は日本代表の女子監督でもあります。長年、日本代表チームに携わっておられる先生のノウハウを身近で勉強させていただき、少しでも吸収できるよう日々邁進していかなくてはならないですし、改めて環境の素晴らしさを実感しております。学生一人一人が個性や考えを持っていていますのでしっかりとコミュニケーションを図り、部全体の士気高揚、稽古の在り方、示範方法などを日々勉強しています」

少年時代は野球と剣道
新田高校でめざめた剣道人生

 大城戸教士は6歳、小学校1年から剣道を始めた。手ほどきは父大城戸功範士八段、1988年、第7回世界剣道選手権大会個人優勝、全日本剣道選手権大会3位など、世代を代表する剣道家だ。「小学校では野球も習っていました。父の指導は基本を中心とした剣道で、試合の勝敗よりも、心の『在り方』を重きに置き教えてくれました。自宅道場での稽古は週3回程度でしたので、野球の試合にも出場しながら比較的のんびりと剣道を続けていたのかもしれません。父はもっと私に言いたいこともあったと思うのですが……。本当に伸び伸びやらせてくれましたし感謝しております。進学した中学校の剣道部では同級生は私一人で、そのまま剣道は自宅道場で続け、中体連の大会に出場していました。全国中学校剣道大会には個人戦で出場しましたが、初戦で敗退しました」

 稽古環境が激変したのは父の母校でもある名門新田高校に進学してからだ。1938年創立の新田高校は愛媛剣道を支え、優秀な人材を輩出している。第70回全日本剣道選手権大会において愛媛県勢で初めて優勝を遂げた村上哲彦選手も新田高校の出身だ。

「高い目標をもった同級生や先輩方と一緒に稽古をすることがなかったですし毎日稽古することがきつくて……。最初は環境に慣れることも大変でしたし、稽古時間が格段に増えましたので、心身ともに疲弊し剣道が嫌になりそうでした。それでも小・中学校の師である父が高校入学前に『もう基礎的なことはできることは教えたつもりだ。これからは行く先行く先の環境で出会う先生方の指導をしっかり聞いて、自分らしく頑張ってこい』と言ったことが頭にありました。そこから勝負の世界に身を置き、今の自分を試してみたいと考えるようになりました。鹿屋体育大学を選んだのも、小中学校の父の教え、新田高校での厳しい稽古があったからだと思います」

 鹿屋体育大学では3年次、第53回全日本学生剣道優勝大会で優勝、念願の日本一を経験した。「その年、キャプテンの芹川勝也先輩(現東海大熊本星翔高校教員)が全日本学生選手権大会で優勝を果たし、部としての士気も高まっておりました。団体戦の選手に選出され、強い先輩・後輩のおかげで日本一になることができました。卒業後は、またさらに高いレベルで剣道を続けたいと考えるようになり、当時、剣道特練の監督であった石田利也先生(範士八段)から『大阪に来ないか』とお声がけをいただき、大阪府警察に奉職させていただきました」

2度の日本代表選出
第17回大会は主将を務める

 2007年、大阪府警察に奉職、警察学校を経て剣道特練員に指名された。当時のキャプテンは寺本将司選手(現日本代表コーチ)だった。「寺本先生が世界大会の王座奪回にむけて日本代表主将を任されていた時代で、大阪府警の稽古は聞きしに勝る稽古環境でした。これが特練の世界なのかと痛感しましたが、自分にできることをやるしかない、という思いで日々稽古に取り組みました」

 厳しい稽古環境で地道に力をつけ、2012年の第15回世界剣道選手権大会(イタリア開催)では27歳で日本代表に選出された。

「初めて日本代表に選んでいただき、髙鍋進主将(現日本代表コーチ)のもとチーム一丸となっておりました。私は個人戦に出させていただいたのですが、ベスト16で敗退して結果が残せませんでした。その後、大阪府警チームでも選手に入ることができず、全日本強化選手のメンバーからも外れ、悔しい時期も経験しました。3年後の日本開催の第16回大会にも日本チームの応援に、後輩の升田良先生(現大阪府警察上席教師)も出場しており、現地で世界一になる瞬間を見届けました。このまま世界大会はもう出場できないなという自分もいましたが、自身としてやれることがまだあるのでは、と奮起し日々稽古に取り組んだ結果、3年後の韓国開催の第17回大会は主将として日本代表に復帰することができました。最後まであきらめずに取り組み、大阪府警察でも主将・コーチとして充実した特練員生活を終えることができました。いま振り返ると、身を置いた環境で本当に多くの方々に支えられてきました。これらの積み重ねが、今回の転職につながったと思います。まだ指導者としてのキャリアは始まったばかりです。今後は、自身の経験知と実践知を未来ある学生たちに還元し、文武ともに後押しをして、微力ではありますが、剣道という伝統文化を未来へと受け継ぐ『知と技の架け橋』となれるよう、成長を続けていきたいと考えています」

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