インタビュー

私が学んだ剣道(矢野博志)

2023年7月10日

2022.9 KENDOJIDAI

矢野博志

やの・ひろし/昭和16年静岡県生まれ。相良高校から国士舘大学に進み、卒業後、助手として同校に勤務する。昭和61年より同大学教授となり、平成23年に退職する。主な戦績として世界選手権大会2位、明治村剣道大会3位、沖縄県立武道館落成記念全国剣道八段大会3位、全国教職員大会優勝などがある。現在、国士舘大学名誉教授、剣道部師範。

恩師高井利雄先生との出会い

 昭和31年4月、静岡県立相良高校に入学しました。ここで半世紀以上、国士舘とのかかわりを持つこととなるご縁をつくっていただいた高井利雄先生のご指導を受けることになりました。

 毎日授業前の時間を利用して朝稽古が行われ、1日3回の厳しい稽古にめきめきとその力量も増し、高校生で二段に合格する事が出来ました。当時剣道部の目標は「東海四県剣道大会」(愛知・三重・岐阜・静岡)への出場でした。この大会予選である「静岡県スポーツ祭剣道大会」でついに優勝を果たす事が出来、夢の大会出場が叶った事は、高校生活を通し最大の喜びであり良き思い出となりました。

 卒業期を迎え、国体選手合宿が縁となり、国士舘とは別の大学の夏期剣道合宿に参加をさせていただき、大学側も私自身も、この大学への進学をほぼ決定しておりましたが「剣道を本気でやる気なら国士舘だ」との高井先生の一言で、初めて国士舘大学の存在を知りました。

 まずは国士舘大学を直接知るために、父が高井先生とともに上京しました。高井先生の案内で、斎村五郎先生(高井先生の恩師)、大野操一郎先生(国士舘大学初代剣道部長)、柴田徳次郎先生(国士舘大学舘長)宅を直接訪ねました。帰宅と同時に「お前は、国士舘大学へ行け」との一言で、国士舘大学へ進路変更することになりました。私の父は、永年に亘り地元の町会議員を勤めており、大変進歩的で教育熱心でした。「国士舘大学へ行け」、父の一言がなければ、いまの私は存在しません。

国士舘大学 正気寮七号室

 父とともに上京し、ただちに大野操一郎先生宅を挨拶のために訪ねました。なにも知らない田舎者の父と私は、稽古着・袴一式と竹刀二本を持ち上京しており、剣道防具等は大学で貸してもらえるものと思い込んでおりました。大学では自分の防具で稽古をする事、竹刀は沢山必要である事を大野先生からうかがい、びっくりした父は、その場で大野先生を通じて剣道防具一式と竹刀六本を注文しました。

 父と別れ、文字通り右も左も分からないまま一人で大学に向かいました。大学に着くと入寮手続きを済ませ向かった先には、昔の長屋を思わせる古い二階建ての建物がコの字型に相撲場を囲むように建てられており、その室内には当時としては大変珍しい二段ベッドが隙間無くぎっしりと設置されており、それが「正気寮」であり、「自習寮」は畳十畳敷き程の畳部屋でした。

 私は正気寮七号室に入寮、大学生としての第一歩はここから始まりました。朝稽古に始まり、朝食、授業、午後の稽古(3時頃から)、夕食、風呂、点呼と目まぐるしい日程に追われる間、先輩への絶え間のない緊張が続いた日々だった事を今は懐かしく思い出します。

 入学後暫くして新入生歓迎トーナメント試合(新人戦選手選考を兼ねた)が行われ、防具がまだ出来上らないまま道場の隅で見学をしておりました私に、一年上級の田口安夫先輩から「道具借してやるから稽古やれ」と声を掛けられ参加する事が出来ました。この時の感激は一生忘れる事は出来ません。結果運良く優勝をする事が出来、これが切っ掛けとなり諸先輩方から矢野の名前を覚え、声も掛けてもらえる様になり、「ここで頑張るしかない」と、決心が付いた瞬間だったと当時を思い起こし、改めて田口先輩の親切を心から感謝しております。

初代剣道部長 大野操一郎先生

 大野先生は、国士舘大学剣道部の初代部長であり、大学創立者と共に私を国士舘大学剣道部へと導いて下さった恩師です。先生は明治34年2月、島根県松江市に近い玉造村に生まれ、松江中学校で芦田長一先生に剣道の手ほどきを受けました。大正11年4月、東京高等師範学校体操科丙(剣道専攻)に入学、高野佐三郎先生らの教えを受けました。戦前は八代中学校、巣鴨中学校で教員をつとめ、戦後、昭和31年に国士舘大学に赴任し、3千人を超える教え子を卒業させました。

 私の入学は昭和34年、大野先生が在職4年目にあたり、剣道部も本格的活動期に入り、この年には第5回関東学生剣道新人戦大会での初優勝を果たし、大学・指導陣・部員全員が一丸となり全国優勝への夢を抱き稽古にも一段と気合の入った時期でした。先生はいつも愛用の自転車で大学に通われ、途中の大変急な坂道も一気に漕ぎ切る脚力の持ち主で、しかもそれは晩年まで続けておられました。

 入学当時の国士舘大学の道場は、建物の中央正面部に50センチ程競り上がった帖程の畳の部分があり、その奥に大きな姿見、向かって左側に太鼓が置かれておりました。細長い道場は、上座中央部に大野先生・斎村先生を中心に左右に先生方が分かれて着座され、対面する形で前列に4年生から2年生、後列に1年生が並ぶ集合体制をとっておりました。

 稽古時は上級生の元立ち一列の前に数名ずつ並ぶ形態で、大野先生の太鼓に併せ、切り返し・打ち込み・掛かり稽古が行われ、地稽古になると先生が元立を交代され、併せて1時間程の稽古時間でした。午後の稽古も同様に切り返し・打ち込み(技の指導あり)・掛かり稽古・地稽古とほぼ2時間の稽古時間でした。試合一ヶ月前頃から試合練習も取り入れられ、これは午後の稽古時間帯か稽古後の時間帯で行われ、稽古後の試合練習時には、終るとくたくたになったものです。

 国士舘の剣道は、相手に威圧感・恐怖心を与え、突きを多く用い・足払い・組み手等の荒技で悪く言えば、相手を痛めつけるといった剣風が良しとされており、私自身も、打たれたり試合で負ける事よりも、まず転ぶ事が一番の恥・恥ずかしい事柄として肝に銘じておりました。

 当時珍しかった朝稽古は、専門学校時代から行われており、これを行った事が国士舘大学剣道部の礎を築き、大きく飛躍出来た要因に思えます。先生は、何とか試合に勝てる強い剣道部作りに奮闘され、学内での稽古に拘らず、広く沢山の人との稽古を推奨され、早稲田・慶応・教育大学等への出稽古も積極的に取り入れ、常に緊張感と真剣な稽古を体験させる事を心掛けておられました。 当時の大学稽古は、土・日曜日が休みとなり、この両日は先生の紹介のもと、先生と共に早朝より護国寺の野間道場での朝稽古、これを終わると更に十時からの皇宮警察(済寧館)道場へと稽古場を移動しての二部稽古をよく体験しました。

 とくに大学卒業後、助手となってからは暫くの間は、欠かさず通いました。この帰りに寄った池袋の定食屋の天丼の美味しかった事が忘れられません。梅ヶ丘駅に辿り着く頃には疲れはピークに達し防具の重さと共に精も魂も尽き果て、その場に寝込んでしまいたい心境でした。

大技が打てれば小技は身につく



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