インタビュー

師に学ぶ姿勢を持ち続けること(岩立三郎)

2023年6月5日

私が学んだ剣道、私が伝えたい剣道。範士の先生方に寄稿をお願いした。

岩立三郎

いわたて・さぶろう/昭和14年千葉県生まれ。千葉県成田高校を卒業後、千葉県警察に奉職する。剣道特練員を退いた後は、関東管区警察学校教官、千葉県警察剣道師範などを歴任。昭和53年から剣道場「松風館」にて剣道指導をはじめ、現在も岩立範士の指導を請うべく、日本はもとより海外からも多数の剣士が集まっている。現在、松風館道場館長、尚美学園大学剣道部師範、全日本剣道道場連盟副会長、全日本高齢剣友会会長。剣道範士八段。

三尺八寸の竹刀は240円

 剣道を始めてから68年になりました。人間でいえば古希にちかづいたことになりますが、高校1年、15歳から始めた剣道をこの年齢になるまでよく続けていると思います。

 わたしは昭和14年3月、千葉県印旛郡の農家の三男坊として生まれました。7年後に妹が生まれ、昼間家族が畑に行ってしまうので、子守はわたしの仕事でした。昭和20年3月頃、小学校に駐屯していた軍隊の兵士が校庭で銃剣術の訓練をしていました。夜になると兵士は農家の風呂に入りにきていて、その兵士の背中を流すのが、わたしの日課でした。上空には米軍爆撃機Bが編隊を組んで飛んでいて2機が村の畑に墜落しました。その部品を拾って遊んだ記憶が鮮明に残っています。

 昭和20年8月15日、小学校1年生のとき、日本は終戦を迎えました。校庭に村民が集まってラジオ放送を聞いて終戦を知りました。

昭和20年から27年までは学校等での公的機関では剣道が禁止された時代であり、わたしも剣道は見たことも聞いたこともなく育ちました。子供の時代のスポーツといえば、自分で作ったグローブをつけて、野球を楽しんだことくらいでしょうか。中学校時代は卓球部に所属していました。

 高校は成田高校に進んだのですが、従兄弟にあこがれ警察官になりたくて、両親に無理を言って高校に行かせてもらいました。警察官になるには柔道をしなければならないという先入観があり、柔道部の稽古を見学に行きました。しかし、そこで稽古をしている柔道部員は大きい人ばかり。隣の剣道部を見ると小柄な人が稽古をしていて、その稽古を眺めていたら、部長の伊藤彰爾先生に「上がれ」と声をかけられ、その流れで剣道部に入ることになりました。これがわたしと剣道の出会いです。入部したものの誰も指導してくれる人もなく、見様見真似で竹刀を持ってふりまわしていました。

 貧しい時代でしたので、自分の剣道具は持てません。重くて痛い竹胴を探してきたり、小手の中に綿を詰めて縫ったりして道具を揃えました。三尺八寸の竹刀は当時一本二百四十円。道路工事の工夫が一日働いた日当と同じ金額です。それくらい竹刀は高価でしたので簡単に買い替えることはできず、割れた箇所にご飯粒をつぶして糊にして裂け目に塗り、日々手入れをして、とても大事に使ったのを覚えています。家から高校までの十キロの道のりを自転車で通学していました。舗装していない砂利道をひたすら走りました。結果としてこれが足腰を鍛えたのかもしれません。

 稽古は現在のような二人組を作って効率的に行なうのではなく、先生、先輩に稽古をお願いするスタイルでした。面打ち、小手面打ちなどの統一的な打ち込み稽古をすることもなく、ただ先生、先輩にお願いするだけでした。当時、成田高校には地元在住の六段、七段クラスの先生方が稽古に来ていました。だから同級生同士で互格稽古をすることもなく、また試合稽古をすることもありませんでした。

 高校3年生のとき、剣道連盟の稽古会に参加したのですが、上下白稽古衣に身をまとった先生が道場に立たれました。着装も立派、姿勢も立派、剣道も洗練されており、その先生が醸し出す雰囲気は高校生のわたしにも只者ではないことが伝わってきました。この白稽古衣の剣士こそ、千葉県警察で指導を受けることになる糸賀憲一先生でした。一瞬で憧れを抱いてしまいました。

 それからしばらくして、高校3年の部員全員が校長室に呼ばれました。校長室の扉を開けると、そこには糸賀先生がいらっしゃり、「警察に入らないか」と我々に警察官になることをすすめました。

 当時、警察官は人気職業で、倍率は約20倍でした。警察官の子息でも試験に落ちることが少なくありませんでした。そんな状況下でお誘いをいただけたのは幸運としか言いようがなく、迷わず手を上げました。

 成田高校は第1回関東大会優勝、翌年は準優勝という結果を残す強豪でしたが、わたしは選手ではありませんでした。それでも稽古は一度も休むことなく、稽古を続けていました。それが評価されたのかはわかりませんが、千葉県警察に採用されました。

糸賀憲一先生と馬渕好吉先生

 昭和32年、千葉県警察に採用され、1年の警察学校勤務を経て剣道特練員となりました。わたしの場合、シーズンオフは交番勤務をする〝通い特練〟と当時呼ばれた勤務体系で、松戸の官舎から稽古に通っていました。警察学校卒業後、松戸で暮らすようになったのが、松戸との縁です。

 松戸から稽古場所の稲毛まで通うのはたいへんでしたが、あこがれの糸賀憲一先生に稽古をつけてもらえることを考えると、まったく苦になりませんでした。

 糸賀先生は大正2年生まれ、県立千葉中学校(現県立千葉中学・高校)から東京高等師範学校(現筑波大学)へ進み、卒業後は東京体育専門学校で助教授として学生の指導にあたっていました。戦後、剣道復活とともに千葉県警察剣道師範となり、以後、警察で指導にあたりました。

 糸賀先生は教育剣道の総本山東京高等師範学校のご出身ですから理論的な指導で、とてもわかりやすく手ほどきをしてくださいました。

 我々の動作を真似るのがとても巧みで面を打てば面、小手を打てば小手と同じような軌道で打ち、悪癖を矯正してくださいました。糸賀先生は試合に負けると褒め、勝つと叱るような方で、とにかく正しい剣道を身につけることに主眼を置いていたようです。

 糸賀先生と同様、千葉県警察師範の馬渕好吉先生(範士八段)にも厳しく稽古をいただきました。馬渕先生は大正4年生まれ、昭和7年から10年まで京都弘道館に入門し、小川金之助範士の直弟子になった方です。その間、大日本武徳会武道専門学校講習科生として修行を続け、のちに千葉県警察に入り、昭和14年、関東七県警察武道大会で個人優勝を果たしています。昭和28年より千葉県警察本部術科担当、警察学校教官を経て師範となりました。馬渕先生は昭和28年からはじまった全国警察剣道大会、関東管区警察剣道大会にも選手として出場されており、わたしにとっては恩師であるとともに剣道特練の大先輩にあたります。

 馬渕先生は講習科で鍛えられた剣風で、わたしたちをとにかく稽古で鍛え上げました。打ち込み・切り返しで剣道の基礎を作られており、足腰の強さ、技の巧みさは別格でした。

警視庁、皇宮警察への出稽古



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