剣道自分史(佐藤成明) 連載

剣道自分史(佐藤成明)教育剣道の灯(その1)

2021年8月9日

剣道に関する私の「自分史」の執筆を依頼されました。もとより修行途上の身、これまでに私は己の歩んできた人生をじっくりと振り返る余裕もなく、ただ前進あるのみの生活をしてきました。また、剣道に関するさしたる戦績や業績もありませんので「自分史」などとして公表することを躊躇しておりました。しかし、私の剣道人生は戦前戦後の剣道界激動の流れの中で先達がもがき苦しみながら今日の剣道界を構築した歴史の中で導かれ育てられて参りました。私が剣道の専門的な指導者になることを志してから五十年になろうとするこの機会に自身の拙い剣道人生を振り返るのもさらなる修行の一助ともなるであろうと思い、また、今日の恵まれた環境の中で剣道を修行する後輩諸君たちになんらかの参考にでもなれば幸甚と思い、執筆することにしました。

佐藤成明範士

さとう・なりあき/昭和13年栃木県生まれ、80歳。宇都宮高校から東京教育大学に進み、卒業後、同大学体育専攻科、さらに同大学院教育学研究科に進む。駒澤大学助教授を経て母校東京教育大学文部教官となり、筑波大学教授を最後に平成14年に退職。全日本選手権大会、世界大会、国体、全国教職員大会、全日本東西対抗大会などに出場。現在、筑波大学名誉教授。全日本学生剣道連盟会長代行。剣道範士八段。

祖父は信心流剣術序
伯父は京都武専、父は東京高師出身

私自身のことを述べる前に祖父や両親のことについて少々触れてみたいと思います。

父佐藤金作の生家は栃木県に古くから続いた農家でした。この地方では農民のあいだで剣術が盛んに行なわれていたようで、明治時代になってからも一宿一飯あるいは長逗留の多くの武者修業者が佐藤家を訪れていたようです。武者修業者が訪れると近郷の同好の士を呼び集めて広い母屋の土間が道場となって激しい剣術の稽古が展開されたそうです。

祖父儀平は明治三十四年四月に代々この地方で行なわれていた剣術流派である信心流の門人で、いわゆる「田舎剣士」でした。農家の一人息子であった祖父は剣術で中央に出ることが叶わず、その夢を二人の息子に託し、次男の才吉を京都の武道専門学校に、三男の金作を東京高等師範学校に進学させて叶えようとしました。

祖父佐藤儀平喜寿の祝にて(昭和25年7月7日)

 三男金作は昭和七年に東京高等師範学校剣道科に入学、高野佐三郎、佐藤卯吉、森田文十郎、菅原融先生等多くの先生・先輩方の薫陶を受けました。同級生には古賀恒彦、和崎嘉之、渡辺敏雄先生等、一年生のときの四年生に中野八十二、井上正孝、村上貞次先生等、父の四年生次の一年生に湯野正憲、佐藤清英、村岡裕先生等が在学した時代でした。

本来ならば昭和十一年三月に卒業するのですが、当時の多くの先輩がそうしたように、四年次の三学期を残して一年間の兵役に服しました。昭和十一年二月二十六日のいわゆる二・二六事件の折には初年兵ながら宇都宮からの鎮圧部隊の一兵卒として上京し九段下あたりでの歩哨に立った経験もあったそうです。昭和十二年三月に卒業、四月より千葉県立成東中学校に体育・剣道教師として赴任し、そこで私は生まれました。

 母初枝は栃木県の医師の長女で大正から昭和の初期、当時としてはモダンな生活を送っていたようです。たとえば通学で最寄りの駅までを当時では珍しい自転車を使っていたり、クラシック音楽や文学などにも興味を持ち、女学校時代には陸上競技の短距離で明治神宮大会に出場した経験もある女性でした。一時期、請われて小学校の臨時教員として教壇に立った経験もありました。三人の男児(長男成明、二男宗武、三男信勝)を育てました。

父佐藤金作、母初枝と。昭和13年12月26日、満8か月の頃(上野・松坂屋屋上にて)

戦地ニューギニアから奇跡の生還
父佐藤金作は教育剣道に生涯を捧げた

 父はその後、広島県立呉第一中学校(現・県立三津田高校)に転勤しました。呉での生活はおぼろげながら記憶にあります。高い石段を登って行くと裏に松林のある小高い山腹にある住宅からは大小の船が行き交う瀬戸内海の絵のような風景が眺められました。あとで知ったことですが、超弩級戦艦「大和」の雄姿も脳裏に焼きついています。

夜になると無数の探照灯の青白い光が行き交うのが異常に怖かったことも思い出です。

中国大陸での戦線の拡大、太平洋戦争に向かって時代が流れる中で父への宇都宮連隊への召集令状とともに広島を去って母校宇都宮中学校に籍を置いての入営、直ちに満州、香港、広東そしてニ ューギニアへと転戦。ここで顔面に(顔面中央、眼鏡を支える鼻のやや下の小鼻の部分)にひん死の貫通銃創を受けました。五ミリでも顔をそむけていたならば当然即死です。当時の上官であった斉藤寛先生(故・元日大高校校長)をはじめ剣道仲間に助けられて奇跡に奇跡を重ねて内地に生還。携行していた血染めの手帳に記された日記には「教育剣道」とか「剣道奉公」などの文字が随所に読み取れます。高師での教えが随所に示されており、後年、私が指導者としての道を歩み始めたとき、それらの事柄が自分の進むべき道のはっきりとした道標にもなるものでした。



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