KENDOJIDAI 2023.2
撮影=西口邦彦
少年剣道の世界の中でも、全国屈指の強豪道場として知られているいばらき少年剣友会。雨谷益水館長が一から育てたこの道場からは多くの教え子が巣立っていったが、とくに4人の子息はいずれも少年大会で全国クラスの活躍をし、それぞれ指導者の道を歩んでいる。剣道一家の家族の絆について、語り合ってもらった。
雨谷益水(あまがい・ますみ)
昭和29年生まれ。玉川学園高・大卒業。現在、いばらき少年剣友会館長・学校法人益水学園理事長・茨城県剣道道場連盟会長など
雨谷鉄平(あまがい・てっぺい)
昭和55年生まれ。いば少剣時代は全中団体3位個人ベスト8、全国道場少年大会団体3位。桐蔭学園高・国士舘大卒。現在、いばらき少年剣友会指導者・いばらき幼稚園園長。
雨谷武蔵(あまがい・むさし)
昭和57年生まれ。いば少剣時代は小学生で全国道場少年大会団体優勝個人優勝、中学生で個人2連覇。桐蔭学園高・筑波大卒。現在、桐蔭学園高教諭・男子剣道部監督。指導者として、全国高校選抜大会優勝など。
雨谷大輔(あまがい・だいすけ)
昭和58年生まれ。いば少剣時代は小学生で全国道場少年大会団体優勝、水戸大会優勝。中学生では全国道場少年大会優勝、全中団体2位。国士舘高・順天堂大卒。現在、青葉中学校教諭・剣道部監督。指導者として、全国中学校大会個人2位など。
雨谷水紀(あまがい・みずき)
昭和62年生まれ。いば少剣時代は中学生で全国道場少年大会団体優勝・個人優勝。土浦日大高・早稲田大卒。現在、いばらき少年剣友会指導者・いばらき中央子ども園園長。
一体となって会を盛り上げる
ーいばらき少年剣友会は昭和55年に創立。益水先生が玉川大学を卒業して3年目のことでした。指導者として右も左もわからない状態からスタートされた、と伺っています。
益水:私は、中学校の部活動で剣道を始めました。そこでご指導いただいた先生が素晴らしい先生で、剣道をもっと学びたいという気持ちになりました。高校・大学については家業である幼稚園のことを勉強するために玉川学園高校・大学に進学しました。
大学を卒業して1年は別のところに勤めながら大学のコーチをし、2年目に茨城に戻りました。そして昭和55年、鉄平が生まれた年に『今までご指導いただいたことを還元しよう』と体育教育の一環で始めたのが少年剣道です。茨城は伝統のある道場や、剣道がさかんな地域も多く、そのような中でぽっと出の新参者が戦うのは大変なことだと思いながらスタートしたことを覚えています。
鉄平:一からの立ち上げの苦労については、私も話では聞いています。私や武蔵が小学生高学年になった頃には、先輩方が強くしていった道場で剣道を学べる、恵まれた世代でした。
益水:一期生のことは忘れられません。道場の立ち上げは初めての経験で右も左もわからない状態でした。そのような状態の中、2年目になって私が「どうせやるなら日本一になりたい」と子どもたちに宣言しました。その時、30人くらいいた会員のうちの10人ほどが賛同して手を挙げてくれました。ただ、いざ稽古になると何人かさぼり出して、参加者が3人、4人といった時もありました。それで「お前らは俺の気持ちはわかっていない、俺は本気で日本一になりたい」と伝えました。
鉄平:「先生が一所懸命なら子どもたちも約束を守ろう」ということで、段々とまとまっていったと聞いています。
益水:一期生たちは本当によくついてきてくれました。だからこそ、苦労して一緒にやってきた子たちが我が子のように思えました。その姿を、4人の息子たちも見て育っていました。
武蔵:私が1年生の時に、6年生の先輩方が水戸大会で優勝しました(平成元年3月)。強い先輩たちでしたし、いつも優しくて、お菓子をよく買ってきて食べさせてくれました。週末、先輩方と一緒にバスに乗って遠征についていって、遠足のような感覚でしたね。
鉄平:父自身は有名なプレイヤーであったわけではありません。しかし茨城に戻ってから「子どもたちを強くしたい」という一心でやってきたと思います。そのパワーはすごく尊敬しますね。また、昔の会員の方々とは今でもお付き合いがある方もいますし、また、当時ご賛同いただいた保護者の方々との巡り合わせも大きかったと思います。
道場は帰ってくる場所
残りの記事は 剣道時代インターナショナル 有料会員の方のみご覧いただけます
No Comments