剣道自分史(佐藤成明) 連載

剣道自分史(佐藤成明)教育剣道の灯(その3)

2021年8月30日

2008.1 KENDOJIDAI

剣道に関する私の「自分史」の執筆を依頼されました。もとより修行途上の身、これまでに私は己の歩んできた人生をじっくりと振り返る余裕もなく、ただ前進あるのみの生活をしてきました。また、剣道に関するさしたる戦績や業績もありませんので「自分史」などとして公表することを躊躇しておりました。しかし、私の剣道人生は戦前戦後の剣道界激動の流れの中で先達がもがき苦しみながら今日の剣道界を構築した歴史の中で導かれ育てられて参りました。私が剣道の専門的な指導者になることを志してから五十年になろうとするこの機会に自身の拙い剣道人生を振り返るのもさらなる修行の一助ともなるであろうと思い、また、今日の恵まれた環境の中で剣道を修行する後輩諸君たちになんらかの参考にでもなれば幸甚と思い、執筆することにしました。

佐藤成明範士

さとう・なりあき/昭和13年栃木県生まれ、80歳。宇都宮高校から東京教育大学に進み、卒業後、同大学体育専攻科、さらに同大学院教育学研究科に進む。駒澤大学助教授を経て母校東京教育大学文部教官となり、筑波大学教授を最後に平成14年に退職。全日本選手権大会、世界大会、国体、全国教職員大会、全日本東西対抗大会などに出場。現在、筑波大学名誉教授。全日本学生剣道連盟会長代行。剣道範士八段。

東京教育大から筑波大学へ
剣道指導者の道を歩みはじめる

 昭和四十一年四月、駒澤大学文学部の講師、合わせて東京教育大学体育学部教務補佐員として指導者の道を歩み始めます。駒沢、大塚、幡ヶ谷での授業と剣道部での稽古の日々を送ります。

 昭和四十五年十月に東京教育大学体育学部文部教官・助手となり、中野八十二教授のもとでの教育と研究の生活になります。昭和四十年代の前半に全国の大学に起こった学園紛争の波は駒澤大学でも東京教育大学にも波及しました。東京教育大学では筑波大学への移転反対闘争も加わって学部長室占拠、大学封鎖、機動隊の学内導入などと騒然とした状況でした。若手教官として学生との対応、学部長の身辺警護、学生デモ隊の学内進入の阻止、入試妨害の警備などに動員されました。時代の流れとはいえ異常な体験をしたものです。

 このような中でも剣道部の稽古は続けられました。武道学科の新設により以前に比べて高校時代に実績のある実力のある入部者の数も増えて活気ある稽古が展開されました。この時期、団体優勝の実績はありませんが、準優勝、三位と着実に戦績を残しています。当時の学生諸君の卒業後の教育界や剣道界での諸々の実績をみるとき、人材の確かさを確認することができます。

 昭和四十八年十月に新構想の下に筑波大学が開学され、翌四十九年四月に体育専門学群と芸術専門学群に第一期生が入学しました。教官の第一期生・先陣として私と文部技官・準研究員として百鬼史訓先生(現・東京農工大学教授)が赴任しました。茨城県新治郡桜村(現・つくば市)での建設工事が大幅に遅れて学生諸君は代々木のオリンピック青少年センターや幡ヶ谷での授業を余儀なくされました。五月後半になって筑波での授業が開始されましたが、大学自体が体育学群棟と体育館、陸上競技場があるだけでした。剣道場が完成するのは一期生が卒業した昭和五十三年の六月のことで、それまではダンス場を拝借しての剣道の授業と稽古でした。

 学生諸君は毎週土日には道具を担いで幡ヶ谷に出向き、教育大学剣道部の稽古に参加しました。学生寮や先輩の下宿、道場に貸布団を持ち込んで宿泊するなどしての参加でした。当時の学生諸君にとっては忘れられない苦しくもあり、懐かしくもある事実です。建設途上の現場では日によって朝と夕とで道路の位置が変わったりすることも間々ありました。水筒持参、雨の多かったその年、泥濘の構内には「筑波シューズ」なる長靴や登山靴が必携の東京からの出勤でした。浮世から隔離された学生たちは長靴にトレシャツ・トレパン姿が常でした。

 昭和五十二年の東京教育大学体育学部の閉学まで筑波大学との兼務であった私は、午前は筑波で、午後からは幡ヶ谷での授業と飛び回っていました。若さゆえの無理もきいたのかも知れません。昭和五十年に新潟大学から今井三郎先生が筑波大学に赴任され、幡ヶ谷からは武道論担当の中林信二先生(故)、教育大学閉学とともに坪井三郎先生(故)も着任されて剣道教育の指導陣が拡充されました。

 昭和五十二年から学連への登録名称を東京教育大学から筑波大学に変更しました。女子学生選手権に初優勝した第二期生の堀部あけみさんの所属は東京教育大学、二度目の優勝時には筑波大学となっています。筑波大学に移行し推薦入学制度で人材を集めながらも学生大会での優勝にはなかなか手が届きませんでした。東京から離れた不便な地にあって必死になって努力をしていたことは確かです。「指導陣が悪い、監督は敗戦のあとに白い歯を見せて笑っていた」などとの批判とも中傷ともとれる匿名の電話や会話が飛び交うこともあ ったようです。

 昭和五十五年(一九八〇)に第四期生・松原賢司(香川県立琴平高校)、高橋亮(秋田県立秋田南高校)君、三年生の平田佳弘(岡山県立西大寺高校)、服部起明(熊本県立八代東高校)君たちを主軸として初の関東大会・全国大会を制することができました。その後、私の筑波大学在任中に第六期の山中洋介(大阪府PL学園高校)、神崎浩(宮崎県立延岡高校)君たちを主力とした時代、第九期の佐賀豊(大阪府PL学園高校)、冨田隆幸(佐賀県立唐津東高校)君たち、第十一期の佐賀聡(北海道東海大第四高校)君たちの代にも優勝をしました。教育大学時代に後任の教務補佐員として机を並べた作道正夫監督の率いる大阪体育大学との決勝戦は、初回は筑波、二回目は大阪体大と拮抗した勝負を展開しました。第十期今里学(神奈川県東海大相模高校)君の時代にはあえて最上級生を選手から外して試合に臨みました。轟々の非難もありましたが優勝の二文字で納得してもらいましたが、もし結果が芳しくなかったならば、どのようなことになっていたか……と内心忸怩たるものがありました。第十五期鍋山隆弘(大阪府PL学園高校)君たち、第十六期河野雄一(宮崎県立高千穂高校)、有田祐二(大阪府PL学園高校)君たちと続いた3連勝を阻止された苦い思い出もあります。個人戦でも山中洋介、佐賀豊、松尾好郎(長崎県立佐世保南高校)、有田祐二、菊川省吾(神奈川県桐陰学園高校)君たちが選手権者になっています。

 女子部は個人戦に優れた戦績を残してきました。堀部あけみ(二回)、原田敦子(現姓長谷部)、田弥生(現姓宮崎)、田中美和(現姓下坂)、榊智子(現姓堀川)、藤田弘美、村山千夏、杉本早恵子さんたちが選手権者となりました。後輩たちがその後に続いています。

 団体戦においても私の在任中の全日本優勝大会では男子優勝六回、二位二回、三位五回、関東大会で優勝三回、二位五回、三位六回。女子全日本大会でも優勝三回、二位四回、三位四回、関東大会では優勝十回、二位五回、三位四回を数えています。平成十三年十月に日本武道館で行なわれた大会は私の部長職最後の大会ということで第二十五期古谷諭君(故・茨城県土浦日大岩瀬高校)たちを中心に健闘し思い出の優勝をプレゼントしてくれた感激すべき大会でした。古谷君は翌年、突然帰らぬ人となりました。私の退官後にも後輩諸君は健闘を続けています。

昭和55年10月12日、第29回関東学生剣道優勝大会(於・日本武道館)にて初優勝を遂げた筑波大。写真前列右から直原幹、境英俊、筆者、今井三郎部長、中林信二、服部起明、後列右から高橋亮、平田佳弘、前田雄二、中村光男、山中洋介、貝沼数志、神崎浩

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