剣道のメンタル強化法

矢野宏光:剣道のメンタル強化法–あなたを前向きにするスモールチェンジ

2024年7月29日
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私がこの執筆で目指したことは、単に難解な心理学研究の知識やトピックを示すのではなく、様々なレベルの剣士やアスリートが日々の中で「感じ」、「考え」、「実行」してきたことを心理学の理論と方法論に乗せながら、できるだけ具体的でわかりやすく解説することでした。各稿は、心理学の一テーマと剣道や日常場面とをリンクさせながらストーリー展開することをベースとしています。その中の一フレーズでも心に留まり、明日からの剣道の拠り所となってくれたら著者としてはこの上ない喜びです。

矢野宏光(やの・ひろみつ)

1968(昭和43)年 秋田県湯沢市生まれ。東海大学体育学部武道学科剣道コース卒業。東海大学大学院修士課程体育学研究科(運動心理学)修了。名古屋大学大学院博士後期課程教育発達科学研究科(心理学)満期退学。現在、国立大学法人高知大学教育学部門 教授。スポーツ心理学のスペシャリストとしてさまざまな競技のサポートに取り組むと同時に同大学剣道部監督。また、スウェーデン王国剣道ナショナル・チーム監督(2004~2009)など国際的にも活躍。一貫して「こころ」と「からだ」のつながりに焦点をあてた研究活動を展開。全日本東西対抗剣道大会出場(優秀試合賞1回)など。剣道教士七段。

あなたを前向きにするスモールチェンジ

テニスというスポーツはメンタル面が勝敗に大きく影響を与えるといわれています。今回は、マルチナ・ヒンギスという女子テニスプレーヤーの行動に注目してみましょう。彼女は1997年に16歳6ヶ月で史上最年少の世界ランキング一位を獲得したテニスプレーヤーですが、彼女の持ち味は、なんといっても頭脳的なプレーと正確なバックハンド・ストレートといえます。また、その技術の素晴らしさと同様に「感情の起伏の激しさ」でも知られています。ですから、彼女の場合、自己コントロール性が勝敗のカギを握っていると考えられるわけです。

 ある試合での出来事です。その試合は一進一退の緊迫したゲームでした。ヒンギスがリードすると相手はそれに食らいつき、差を広げようとヒンギスが躍起になるとみずからのミスで逆に相手にリードを許してしまう。そんな中で彼女はいらだっていました。ついには、きわどい判定に対して憮然とした表情で審判に抗議する始末で、観衆もいつしか相手の味方と化し、会場は完全アウェー状態。

そして、この状況に追い打ちをかけるようにヒンギスの足にはアクシデントが発生。強い痛みと痙攣が彼女を苦しめます。思いもよらないアクシデントに見舞われ、彼女のプレーは正確さを欠き、もう半泣き状態でした。テニスではこのようなアクシデントの場合、ドクターやトレーナーの判断で処置を受けられるルールになっていて、彼女は一度コートを出て控え室に姿を消したのでした。このとき、だれもがヒンギスの敗北を確信していました。

 ところが、数分後、処置を終えてコートに戻ってきたヒンギスの表情は、先ほどまでの泣きべそ顔とはまったく違っていました。顔には笑顔と自信があふれていたのです。この数分間にいったいなにがあったのでしょう? よく観察するとあることに気がつきました。彼女はテニスウェアを新しいものに着替え、髪型も変えていたのです。その後、彼女は別人のように集中力を取り戻し、スーパーショットを連発。最後には不利な形勢を逆転し、この試合に勝利したのでした。

 すなわち、ヒンギスのとった方法は、ほんの小さな変化(スモールチェンジ)を「きっかけ」にネガティヴな気持ちを捨て、前向きで新しい気分に切り替えるというテクニックだったのです。これは、事前に準備された「ソリューションバンク/予測される問題が起きたとき、『もしこうなったら私はこうする』という形式にまとめた解決案」から最適な対処法を選んだことに他なりません。ですが、どんなに優れたプレーヤーでもこのような判断を突然できるわけではありません。彼女はかつて来日した際にこんな言葉を残しています。「幸運は自分でつかむもの。待っていて、天から降ってくるものじゃない」と。つまり、彼女のとった行動はたゆまぬ準備と経験の蓄積によって生み出されたものなのです。

 この教訓は剣道のさまざまな場面にも応用できるものです。だれでも自らの「不安定になった心」を、「心をもって統制する」ことは、たやすくはありません。そこで、道具やタイミングを使って気持ちを切り替える「きっかけ」を能動的につくり心の安定を図ることが有効でしょう。ここではなにも、技術を替えるような大きな変化(ビッグチェンジ)を目的としているのではなく、スモールチェンジでいいのです。たとえば、乾いた剣道着に着替えたり、新しい手ぬぐいを使ったりすることもこれにあたります。イヤな気持ちを濡れた剣道着と一緒に脱ぎ捨て、ヒンギスが新しい自分に生まれ変わったように、あらためて試合や審査に臨むことも気持ちを切り替えるひとつの技術なのです。

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