インタビュー

昭和の竹刀職人集落

2025年5月12日

昭和40年代、滋賀県米原市東草野地域には竹刀職人の集落が存在していた。多くの竹刀職人が存在し、最盛期には首都圏の百貨店に竹刀が出展されることもあった。剣道具・竹刀の変遷から剣道の技術史を研究している坂本太一氏の調査を掲載する。

坂本太一

(さかもと・たいち)昭和61年生まれ、剣道錬士六段。茨城県出身、神奈川県私立桐蔭学園高等学校から日本体育大学へ進学。同大学院修了後、岐阜県市立岐阜薬科大学に着任。2017年より中部学院大学剣道部監督。

 私は日本体育大学大学院で、スポーツ文化社会科学を専攻し、谷釜了正教授(第11代日本体育大学学長)のもとでスポーツ史について学んだ。この時、谷釜教授から「剣道を続けるなら、剣道具・竹刀の変遷から剣道の技術史を研究してみなさい」とご指導をいただき、研究活動を継続している。

 令和2年6月、研究の一環として、滋賀県大津市堅田の居初家※に足を運んだ。居初家には、幕末期の剣術道具と竹刀が残されており、これらは滋賀県高校教諭の三苫保久氏によって平成21年の日本武道学会で報告されている。調査当日は三苫氏に同行をお願いし、それらの採寸や計量を行った。一通りの調査が終了すると、三苫氏より「滋賀県米原市の伊吹山文化資料館に竹刀の展示品があるので帰りに寄ってみるといい」とご助言をいただいた。

 学芸員の高橋順之氏に竹刀に関する史料がないか伺うと、かつて、米原市の東草野地域には竹刀職人の集落が存在していたことが分かった。当記事の掲載により、滋賀県の伊吹山地に多くの竹刀職人が存在した事を周知できれば幸いである。

※1:居初家は中世から琵琶湖の舟運を取り仕切る船道郷士・大庄屋である。

滋賀県米原市
東草野地域と竹刀づくり

 米原市東草野地域は、滋賀県北東部に位置し、山々が連なる伊吹山地の一角にある。琵琶湖にそそぐ姉川は、自然豊かな渓谷を形成し、そのわずかな平坦地に甲津原・曲谷・甲賀・吉槻の4集落が点在。東草野は、その「風土」と「生活・生業」が互いに作用し合って独自の文化をつくり、平成27年3月には「東草野の山村景観」として国の重要文化的景観に選定された。

 東草野では、夏は炭焼きを行い、雪に閉ざされる冬は麻織物や石臼作り、竹刀づくりなどが営まれていた。滋賀県庁に収蔵される資料には、竹刀づくりについて次のように書かれている。

「伊吹町では大正末頃に京都の業者に弟子入りしていた人が技術を持ち帰り、伊吹町甲賀で10軒の農家が作っていた。終戦で一時中断、昭和38年頃から再び作るようになった。又甲津原地区の人は戦前奉公にいって習ってきたことを戦後だんだんと剣道の普及によって農業のかたてまに竹刀を作り始めた」

 伊吹町※2の歴史について書かれた『伊吹町史通史編下』(1992)の「村落の歩み」には、竹刀づくりを広めた人物や、それが産業として発展する様子が詳細に記述されている。

(※2:2005年2月、市町村合併により伊吹町は米原市となり消滅)

「甲賀に竹刀工芸をはじめたのは池田九右ヱ門(当時90歳)とその子政太郎である。京都深草で修業した彼は日露戦争後郷里に帰り竹刀の制作につとめた。昭和14、15年ごろからは需要が増大し木炭の生産よりも安定した収入源となった。終戦によって一時途絶えたもののまもなく復旧し、中・高等教育現場での剣道復活とともに30年以降急速に需要が伸びはじめ40年前半に最盛期を迎える。生産者も次第に増加、甲津原にも同業者が生まれた。甲賀の5軒12人に加え甲津原でも3軒を超えたが、生産が追いつかない時期もあった」

 以上2点の資料から、大正末期以降に伊吹町の甲賀(こうか)で竹刀づくりがはじめられ、甲津原へと広まったことがわかる。また、戦前・戦中は軍部に竹刀を納め、戦後は教育現場での剣道実施により需要が拡大。次第に竹刀づくりを行う人々も増えていった。そして、令和元年に米原市教育委員会がまとめた資料には最盛期を迎えた竹刀づくりの様子が記されている。

 原材料の竹は、地元で調達することもあったが甲賀周辺には竹が少なく、京都の竹屋から仕入れていた。竹刀10本分を1束(材料40本)とし、必要数を千本単位で仕入れ、トラックで運んできた。滋賀県高島郡は、扇骨の産地で竹が多く高島から調達する職人もいた。竹刀づくりは年中行っているが、新学期を迎える4月・5月が特に忙しく、集中して作った時は1日10本仕上げた。しかし、竹の整理や天日干し作業があるため、年間制作できる本数は2400本ぐらいである。作業は、朝7時から夜7時まで玄関脇の6畳間で行い、女性は「節おろし」をするくらい。制作した竹刀の多くは、学校体育の授業用で有段者用は材料から良いものを選んだ。

 このように、安定した収入源となった竹刀作りだったが、昭和45年ごろ、全国的な竹の開花枯死によって竹刀の材料が不足する事態となり、販売業者は竹刀製作事業を海外へ移行せざるを得なくなった。前掲『伊吹町史通史編下』には「昭和40年後半からは台湾、朝鮮等から安価な輸入品が出廻りはじめ、しだいに練習用竹刀の需要がおちた。師範級や教室などから特別注文が入ることがあっても、質量ともに注文も少なくなり生業を営むことが出来なくなり、しだいに姿を消すこととなった」と記されている。つまり材料不足を打開するための試みが、かえって安価な海外製竹刀を流通させ、東草野の竹刀製造業を衰退させる結果を招いたのである。

 平成28年9月、米原市教育委員会と滋賀県立大学人間文化学部市川秀之研究室は、米原市甲賀の古民家から竹刀製造に関する道具及び材料、約200点を収集した。この史料群は令和3年2月16日、滋賀県の「有形民俗文化財」として指定を受け、現在は米原市教育委員会が保管している。私は、資料館の高橋氏にこの地域の竹刀製造業について調査をさせてもらえないか依頼すると「君のような人を待っていた!」と快諾していただいた。話を聞いていくと、甲賀在住の元竹刀職人、池田光信氏がご存命であることが分かり、日を改めてお会いする運びとなった。

 今回の調査にあたり、当地域の竹刀製造業に関する先行研究を探ると、滋賀県立大学の居林真野(旧姓=力石)さんによる卒業研究論文「竹刀職人のライフヒストリーを基にした国内竹刀製造業の歴史的変遷に関する研究―滋賀県を中心として―」(平成23年)を見つけることができた。この研究は、滋賀県内で竹刀職人をしていた山口吉昭氏(竹刀銘=比叡)と元竹刀職人である池田光信氏(竹刀銘=行光)のライフヒストリー(=生活や生き方)を基に、県内に根付いていた竹刀製造業の歴史的変遷を明らかにしたものである。次項では、この研究の一部と、筆者が池田氏からお聞きした内容を踏まえ、甲賀の元竹刀職人である池田氏の仕事振りと竹刀製造業の実態について紹介したい。なお、本稿で居林さんの研究成果を公表することはご本人に承諾を得ている。

池田光信氏
甲賀最後の竹刀職人

はじめに、居林さんの研究成果をもとに、池田光信氏のライフヒストリーをたどってみたい。



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