岩立三郎範士

試合稽古は一切なし。
地元の先生にかかった日々
今回は私の剣道人生を紹介したいと思います。私は昭和14年3月、千葉県印旛郡の農家の三男坊として生まれました。7年後に妹が生まれ、昼間家族が畑に行ってしまうので、子守は私の仕事でした。昭和20年、小学校1年生のとき、日本は終戦を迎えました。昭和20年から27年までは剣道禁止の時代であり、私も剣道の存在など知らずに育っていました。子供の時代のスポーツといえば、自分で作ったグローブをつけて、野球を楽しんだことくらいでしょうか。
高校は成田高校に進んだのですが、従兄弟にあこがれ警察官になりたくて、両親に無理を言って高校に行かせてもらいました。警察官になるには柔道をしなければならないという先入観があり、柔道部の稽古を見学に行きました。しかし、そこで稽古をしている柔道部員は大きい人ばかり。隣の剣道部を見ると小柄な人が稽古をしていて、その稽古を眺めていたら、部長の伊藤彰爾先生に「上がれ」と声をかけられ、その流れで剣道部に入ることになりました。これが私と剣道の出会いです。
貧しい時代でしたので、自分の剣道具は持てません。重くて痛い竹胴を探してきたり、小手の中に綿を詰めて縫ったりして道具を揃えました。三尺八寸の竹刀は当時1本240円。道路工夫が一日働いた日当と同じ金額です。それくらい竹刀は高価でしたので簡単に買い替えることはできず、割れた箇所にご飯粒をつぶして糊にして裂け目に塗り、日々手入れをして、とても大事に使ったのを覚えています。家から高校までの10キロの道のりを自転車で通学していました。舗装していない砂利道をひたすら走りました。結果としてこれが足腰を鍛えたのかもしれません。
稽古は現在のような二人組を作って効率的に行なうのではなく、先生、先輩に稽古をお願いするスタイルでした。面打ち、小手面打ちなどの統一的な打ち込み稽古をすることもなく、ただ先生、先輩にお願いするだけでした。当時、成田高校には地元在住の六段、七段クラスの先生方が稽古に来ていました。だから同級生同士で互格稽古をすることもなく、また試合稽古をすることもありませんでした。
高校三年生のとき、剣道連盟の稽古会に参加したのですが、上下白稽古衣に身をまとった先生が道場に立たれました。着装も立派、姿勢も立派、剣道も洗練されており、その先生が醸し出す雰囲気は高校生の私にも只者ではないことが伝わってきました。この白稽古衣の剣士こそ、千葉県警察で指導を受けることになる糸賀憲一先生でした。一瞬で憧れを抱いてしまいました。
それからしばらくして、高校三年の部員全員が校長室に呼ばれました。校長室の扉を開けると、そこには糸賀先生がいらっしゃり、「警察に入らないか」と我々に警察官になることをすすめました。
当時、警察官は人気職業で、倍率は約二十倍でした。警察官の子息でも試験に落ちることが少なくありませんでした。そんな状況下でお誘いをいただけたのは幸運としか言いようがなく、迷わず手を上げました。
成田高校は第一回関東大会優勝、翌年は準優勝という結果を残す強豪でしたが、私は選手ではありませんでした。それでも稽古は一度も休むことなく、稽古を続けていました。それが評価されたのかはわかりませんが、千葉県警察に採用されました。
特練員の七年間は
懸かる稽古に徹するだけたった
昭和32年、千葉県警に採用された私は1年の警察学校を経て剣道特練員となりました。ただし、私の場合、シーズンオフは交番勤務をする〝通い特練〟と当時呼ばれた勤務体系で、松戸の官舎から稽古に通っていました。
松戸から稲毛まで通うのはたいへんでしたが、あこがれの糸賀憲一先生に稽古をつけてもらえることを考えると、まったく苦になりませんでした。
ここで糸賀先生の経歴を紹介します。大正2年生まれ、県立千葉中学校から東京高等師範学校へ進み、卒業後は東京体育専門学校で助教授として学生の指導にあたっていました。戦後、剣道復活とともに千葉県警察学校剣道師範となり、以後、警察で指導にあたりました。糸賀先生は東京高等師範学校のご出身ですから理論的な指導で、とてもわかりやすく手ほどきをしてくださいました。
我々の動作を真似るのがとても巧みで面を打てば面、小手を打てば小手と同じような軌道で打ち、悪癖を矯正してくださいました。糸賀先生は試合に負けると褒め、勝つと叱るような方で、とにかく正しい剣道を身につけることに主眼を置いていたようです。
糸賀先生と同様、千葉県警察学校師範の馬渕好吉先生(範士八段)にも厳しく稽古をいただきました。馬渕先生は大正4年生まれ、京都弘道館で範士十段小川金之助先生の直弟子となった方で、武道専門学校講習科でも修行をされました。先生は稽古が好きな方で、ひたすら稽古をお願いするだけでした。
特練員時代、警視庁、皇宮警察に行ったのもよい思い出です。当時、警視庁には持田盛二先生(範士十段)、斎村五郎先生(範士十段)、堀口清先生(範士九段)をはじめ錚々たる先生方がずらりと元に立っており、順番を待っているだけでも息が上がってしまうような先生方ばかりでした。20歳で特練員となった私は当時二段です。高校を出たばかりの私が稽古に懸かるのですから、かかり稽古だけです。皇宮警察では佐藤貞雄先生(範士九代)にも稽古をお願いしましたが、佐藤先生は必ず面を打たせ、何本も何本も往復で打ち込みを受けてくださいました。
昭和34年、現在、千葉県剣道連盟会長の川畑富保先生が千葉県警察特練員になりました。川畑先生は素早い身のこなしで、のちに全国警察選手権大会で三回優勝を果たすなど、千葉県警の主力選手として長く活躍しました。彼は本当に努力家で、夜も道場で素振りをくり返し、寸暇を惜しんで努力を積み重ねていました。その結果が三度の優勝に結びついたと思いますが、同時期、剣道特練員として学んだことはたくさんありました。
私は特練員としては関東管区警察大会に出させていただいたくらいで、とくにきわだった成績を収めることはできませんでした。ただ、特練員時代は糸賀、馬渕両先生だけでなく、道場にはのちに国際武道大学の教授となった佐藤清英先生(範士八段)、石田稔先生(教士八段)や松和芳郎先生(範士八段)など警察以外の先生方も頻繁に稽古に来てくださり、懸かる稽古を存分にすることができました。この稽古は、私の大きな財産になりました。
三十八歳で警察の剣道指導者となり
八段をめざす
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